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#34

繰り返しじゃない繰り返しを繰り返す

内山喜代成

参考文献番外編を依頼されました。一時は私が依頼する側だったので、「自分だったら何を取り上げるのかな」と考えたこともありましたが、さほど本を読んでいるわけでもないので答えは出ないまま「トガル」の編集委員から離れることとなりました。

そこで今回の依頼です。改めて考えてみると、人生に影響を与えた作品は本じゃなくてもいい。
思い当たったのが平成24年2月新橋演舞場「六代目中村勘九郎襲名披露公演」夜の部で観た「御存鈴ヶ森」という歌舞伎の演目です。正確には演目ではなくこの日の芝居です。四世鶴屋南北の「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」の二幕目で、よく上演されるのは「鈴ヶ森」と大詰の「鞘當」で、それ以外は見たことがありません。話の筋は、伯父を殺して追われている狭客の白井権八が江戸の入り口である品川宿近くの鈴ヶ森(かつて刑場があった)で、雲助に襲われます。しかし、見事に退けて、その様子を籠の中から見ていた幡随院長兵衛が匿うことを申し出て、江戸での再会を約束して別れるというものです。

院生の頃、演劇評論家の先生が担当する「日本文学」の期末レポートを書くために初めて歌舞伎座に緊張しながら足を運びました。それをきっかけに歌舞伎座、新橋演舞場、国立劇場へと足繁く通うようになりました。また、その頃、私自身も素人劇団で舞台に立ちましたが、向かないことに気づいてすぐにやめました。お金もなかったので、一番安い席や一幕だけでしたが、台湾で日本語教師になった後も年に1回の帰国に合わせて、友人にチケットを取ってもらって通い続けました。

勘九郎(当時は勘太郎)丈の芝居は「紅葉狩」という演目の山神が印象的だったこと、そして同じ年の生まれということもあって、機会があれば観るようにしていました。3月の塩谷判官も良かった。この時も旧正月の帰国にあわせてでした。夜の部の初めの演目が「御存鈴ヶ森」。幡随院長兵衛を二代目中村吉右衛門、白井権八を十八代目中村勘三郎という配役でした。自分の人生に影響を与えたのはこの日の勘三郎丈の白井権八です。

何度か見たことがある演目でしたが、この日は違いました 。芝居について言語化できるだけの表現力が私には残念ながらありませんが、3階席からは到底見えない表情を何とか見ようと必死になりました。白井権八は10代の美少年、演じるのは56歳の勘三郎丈。50代だからできる10代、年齢ではなくこれまでの人生があるからこそ表現できる白井権八。200年近く違う役者が違う場所で違う観客に向けて演じてきた演目です。同じ「御存鈴ヶ森」でも繰り返しじゃない繰り返しが繰り返されています。ただ、役者、場所、観客としての私はその時だけのものでした。こんなことが起きるんだという余韻の中で、次の勘三郎丈の芝居に合わせて帰国しようと思いながら劇場を後にしましたが、この年の12月にご逝去され、願いは叶うことはありませんでした。新しい歌舞伎座で感じたかった。

比べるのは烏滸がましいですが、教師としての私も繰り返しじゃない繰り返しを繰り返しているように感じます。学習項目や扱う内容が同じでも、決して同じではない繰り返しです。日本語を学習者に教えているというよりは、さまざまなかたちの日本語を見せて、どう捉えるのかを学習者と一緒に考えています。教員養成を担当するようになってからも基本的にはあまり変わりません。経験や年齢を重ねることで、できるようになったこと、感じられるようになったこともあるのですが、一方で、できなくなったこと、感じられなくなったことも増えました。だた、これはこれで面白い。台本や型があるわけでないので、授業にはかなりの自由度で私の散らかった人生が投影されています。学習者の側もまたそうなのかもしれません。

あの日の感動は起こしようもありませんが、自分の人生と学習者の人生が重なり合う教室で何かが起きたらいいなと日々思っています。

あと、もう少し人生を散らかすためにいつか日本語教育から離れたいとも。

紹介した人:うちやま きよのり

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