教師物語

私の日本語教師以前物語
―妄想インタビュー-


佐藤 正則

たとえば疲れて何もしたくないとき、仕事の合間にコーヒーを飲んでいるとき、夜の街をひとりで歩いているとき、いつのまにかもう一人の自分が隣にいるときはありませんか。これは、ある晩私の部屋で起きた、もうひとりの私(※)とのとりとめもないおしゃべりです。

 

※: 突然ですが、日本語教師という職業を初めて知ったのはいつごろですか。

私: 突然ですね。どうしてそんなこと聞くんですか。

※: いやね、どうしてこういう人が日本語教師になったのかなって。

私: 1980年代の半ばぐらいですかね。20代の初めの頃、川崎にあるキリスト教の教会に通ってまして、そこで知り合った女の子が、外大に合格したんですよ。で、何勉強するのって聞いたら、日本語教師の勉強って言ったのを、ふうんって思った記憶があります。たしか、日本語教師なんて日本人ならだれでもできるんじゃないの?とその女の子に言ったと思います。今考えると、留学生10万人計画とかの影響で、日本語教師が職業として認知され始めたけど、うさんくさいものとして見られていた時代だったのかなと。今もそうかもしれませんが。

※: でも、日本語教師に関心を持ったわけじゃないですよね。

私: そうですね、全然。私が日本語教師になろうと思ったのはもっとずっと後、2000年ですから。

※: それまで何をしていたんですか。

私: 一言で言えば、フリーターをしながら自分で劇団作って演劇してました。その頃って、バブル景気に向かって、日本が驀進していた時代でしたね。周りが、商社とかマスコミとか、簡単に就職していくなかで、なぜかどう生きていっていいのか分からない。大学院でも行こうかなって思ったりもしたんですが、それほどできるわけでもなかったし。

※: でも演劇の才能だって、なかったでしょ。

私: まあね。でも大学の頃、ロシア語劇のサークル入っていて、何となく気になっていたのかもしれません。実は、高校時代は落語に夢中になっていて、落語家になりたかったんです。同志募って文化祭で寄席作ってやったりとかしてましたよ。…演じることが嫌いじゃなかったのかな。

 

※: 何で落語家になろうとしなかったの。弟子入りするならこの人って決めてたんでしょ?

私: 私、早死にすると思ってたんです。落語家って長生きしなきゃだめでしょう。

※: よく分かりません。

私: そうですよね。私ね、私を生んでくれた母親が、36歳で亡くなってるんですよ。私が10歳のとき、脳溢血で。身体が動かないって夕方言い出して、そのまま寝込んだら鼾かき出して、夜中には死んでしまいました。そのとき、家には私と妹しかいなくて、救急車早く呼べば死ななかったかもしれなかった…。そういうのって、トラウマになると思いません?

※: 確かにね。

私: しかも、私が36歳になるのは、ちょうど、あのノストラダムスが予言した1999年、世界が滅びる年だったんです。

※: …。

私: ということで、劇団も36歳まで続けました。

※: …でも世界は終わらなかった。

私: ほんとですね。

※: どうするつもりだったんですか。世界がおわらなかったら。

私: ま、それは半分冗談で、就職したくなかったんですね。…私が日本の雇用制度の価値観に縛られていたのかもしれません、父の姿みて。

※: お父さんも辛いですね、そんなこと言われたら。

私: そうですね。でもね、大学出たら父のように面白くない仕事をずっと続けて定年まで生きる、というのが耐えられなかったというのもあります。ま、今思えば父も自分の仕事に生きがいを持っていたのかもしれませんが。

※: お父さんと話したりしなかったんですか、仕事についてとか。

私: ずっと仲が悪かったので。若い頃は、面と向かうとすぐ喧嘩になっちゃうんですよ。…ま、この年になって、あの頃父はどう思っていたのかなって思います。もう死んでしまったから聞くことはできませんが…。

※: ちょっと時間を戻します。大学時代はロシア語劇サークルでご活躍に?

私: 活躍したわけじゃないけど、私の大学時代は文学とコンツェルト(サークルの名前)でした。

※: ちょっと話してくれますか。

私: コンツェルトって、今も続いているんですけどね。かつては沼野充義先生とか亀山郁夫先生とか伊東一郎先生とか、その他研究や貿易や文化交流など日露関係のいまを背負っている様々な人々がメンバーだったんですよ。昨年50年誌というのができて、私も寄稿させていただいたんですが、創設したのは、タチヤーナ・ボリーソブナ先生。タチヤーナ先生も、ロシア文学やロシア語教育界では知らない人はいないぐらい有名な方なんです。タチヤーナ先生が1970年代の学生運動の時代に、学生の心が殺伐となっているのに心を痛めて、学生を集めて小さなロシア語劇を上演したんです。それが始まりです。以来、外大、東大、早稲田、駒澤、埼玉大等、いろいろな大学の学生が集まって、1年に一度ロシアの戯曲を上演してきました。もうタチヤーナ先生は亡くなりましたが、今ではすっかり劇団っぽくなって、早稲田のサークルとして続いているそうです。私もタチヤーナ先生の授業をとったのが縁で、いつも本を読んで、屈折した暗い青年だった私をコンツェルトに誘ってくださったんです。そこで、ロシア語で演じたのが演劇との出会いと言えば出会い。当時のコンツェルトは、チェーホフとかブルガーコフとかゴーゴリとか現代の劇まで上演してましたね。ま、詳しいことは50年誌をお読みください。

※: タチヤーナ先生があなたの教育観に大きな影響を与えていると、以前聞きました。

私: そうですね。別段すごい教授法とう訳ではありません。普通に教科書使ったり、生教材使ったり…。でも、タチヤーナ先生は、明らかに全人的な教育の実践者でした。

※: ほう。

私: コンツェルトを見れば分かるでしょ?プロジェクト活動という枠を越えていたな。コンツェルトはロシア語劇という目標をもった、若者たちのコミュニティでしたよ。4月にどこからか集まった学生たちは上演に向けて、戯曲選びから台本読み、スタッフキャスト決め、稽古、本番まで、そこには様々な出来事(событие)が起きるんですね。出来事ってロシア語でсобытиеといいます。соは「ともに」бытиеは「存在」という意味があるんですが、ほんとうにそんな感じでした。アーレントのことばで言えば、公共圏でもあり親密圏でもあった。その中心にいたのがタチヤーナ先生でした。タチヤーナ先生を一言で言えば、愛の人であったと思います。全ての学生に平等に愛を与えることができた人。その背景にはタチヤーナ先生の苦難の人生があると思うのですが…まあ、言い出したらきりがありません。50年誌[1]を読んでください。

※: わかりました。で、それがあなたの劇団とどう関わっていくんですか。

私: そんなに関わりがあるわけじゃないかもしれませんが、その当時の仲間数人で劇団作ったので。

※: でも、卒業してすぐ作ったわけじゃないですよね。

私: そうです。実は、教会行きだした頃から、ちょっと病んで。何とか大学は卒業したけど、2年ほど引きこもりました。ここの間のことだけは一生秘密です。よく死なないで生きていましたよ。その後、ようやく回復途上にあったとき、一度だけ小さな出版社で働きまました。編集とか営業の仕事です。

※: 働いていたときもあるんですね。

私: ええ、ようやく働けるようになって、横浜の家を出て巣鴨で一人暮らしを始めました。巣鴨は仕事場に近かったんです。でも、結局6ヶ月で辞めます。

※: 何かあったんですか。

私:よく覚えています。会社の上司の人たちと飲み会があって。で、なぜか結婚の話とかで盛り上がって。そのとき上司が「つぎは佐藤君だな」と言ったんです。

※: それが何か?

私: 説明できませんが、なぜか、とても嫌な気持ちがしました。よく覚えています。深夜、家に帰って一人で風呂に入っていたんです。浴槽に入って、こう、上を向いたときです。天井から、水滴がね、こう、垂れて、私の頬に当たったんです。……そのとき思いました。会社を辞めよう。

※: …わけわかりません。

私: 私もよく分かりませんが、そう思ったのは確かです。そして、早朝、明るくなると、鞄一つもって、新宿に行って、関西方面の高速バス乗りました。解放感いっぱいでしたね。

※: 会社からすればいい迷惑ですね。

私: ほんとうにそう思います。今思うと大変申し訳ないです。その後、1週間ぐらいですけど、関西ぶらぶらしました。街で自衛隊にスカウトとかされたんですよ、断りましたが。ま、これが、ほんとうに面白い人間なら、インドとかアフリカに行って、何かに目覚めるんですけどね。私は何もかも小物です。

※: そうですね。海外に飛び出して帰ってきて日本語教師になる人っていますよね。

私: 時代的にもそういう人が多かったですよね。でも、私、そういう発想がなかったです。小物なんです。…で、覚えているんですけどね。京都に行ったときです。何というところか忘れましたが、坂本龍馬とか、幕末の志士の墓地がありますね。そこが高台なんですね。たまたまそこに行ったんですが、そこからね、京都市街を一望できるんですよ。で、そこに立ったときですが、何というか、その瞬間、自分の身体と心が一つになる充溢感を味わったんです。

※: はあ。

私: …説明できない。でも、すごい感覚なんですよ。今まで観念的で、離人症的な感覚だったのが、そのとき治ったんです。なんというかな、いま、ここに、自分がいるぞという、唯一無二の感覚です。…あのときの感覚そのものは、もう味わえないけど、それがどういうものだったのかは、今でも忘れることができませんね。……そして私の躁時代が始まります。

※: 躁ですか。

私: その後、兵庫の三宮へ行って、金沢へ行って、とうとうお金がなくなってしまって。東京に帰ります。

いなくなったのは1週間ぐらいでしたが、会社、両親、大家、すべての皆様にはご迷惑をおかけしました。

※: そりゃそうですよ。

私: 金沢から帰ってきたときね、お金がほんとうになくて、コンツェルト関係の友人の家に、ご飯を食べさせてもらいに行きました。そこに、やっぱり作家志望みたいな二人がいたのですが、私とその2人で、ご飯食べながら、劇団を作ろうということになって。

※: ようやく劇団ですね。

私: はい、劇団なんて、躁じゃないと作れません。ここから10年間の演劇活動が始まります。…今日はここまででいいですか。そろそろ眠くなってきた。続きは明日。

 

**************

※: こんばんは。

私: また来たんですか。

※: また、来たって、呼んだのはあなたですよ。

私: そうでしたっけ?

※: そうですよ。実は話したくってうずうずしてるんでしょ。

私: そうなのかな…。

※: そうですよ……劇団を作ったところからお願いします。

私: じゃ、ちょっと前の話から。会社に詫びを入れて、続けないかっていってくれたんだけど、辞めました。で、まずしたことは引越です。

※: はあ。

私: 巣鴨のワンルームマンションがね、家賃が高い上に、大家がちょっと変わった人で、堅気じゃないとダメなんですよ。私が会社辞めたっていったら、引っ越してくれって言われて。それで、困っちゃって、たまたま街の不動産屋に入ったら、そこのおじいさんと暫く話しているうちに気が合っちゃったんです。特別なファイルから、あんたにちょうどいい物件があるよって。隣の西巣鴨にあるアパートで。何と家賃22000円!

※: へえ、その時代だって、22000円は格安ですね。

私: ええ。でもそのアパート、なかなかの時代ものなんです。木造の2階建てでね。西巣鴨にあったんですが、1階には老夫婦の大家が住んでいて、入り口には全住人の下駄箱がある。木の階段上がっていくと長い廊下があって、それぞれ向かい合って部屋が12部屋ぐらいあったかな。風呂なしトイレ共同でね。私の部屋はトイレの横で4畳半でした。本だけで部屋がいっぱいになっちゃって。

※: すごいですね。

私: でも西巣鴨がすごく気にいってね。風呂はなくたって近くに銭湯が3軒もあったんですよ。24時間営業の甘味処とか、格安なのに頭から尾まで餡子いっぱいつまった鯛焼き屋とか、ときわ食堂っていう大衆食堂とか…。そうそう、巣鴨から西巣鴨に引っ越すとき、おばあちゃんの原宿って言われる商店街を、近くの工務店か何かで借りてきたリヤカーで引越してね。

※: へえ。

私: あの頃、なぜか、そんなことを手伝ってくれる後輩や友人がたくさんいたんですね。お祭りみたいな引越でしたね。で、引越先の〇〇荘で私の劇団活動は始まりました。

※: なんという劇団ですか。

私: 遊動劇舎です。遊ぶ、動く、劇に、学校の校舎の舎。いいネーミングでしょ。私がつけたんですよ。旗揚げは阿佐ヶ谷にある小さな劇場でした。

 

※: 劇団員やスタッフはどうしたんですか。

私: そのころはね、『演劇ぶっく』や『ぴあ』や『シアターガイド』とかね、演劇雑誌も多くて、小劇場がまだまだ流行ってたんですね。そこで劇団員募集とかすると、応募があるんですね。そのときは一人応募がきて即決。で、4人のキャストで、何かできないかなって。『ゴドーを待ちながら』にきめました。

※:『ゴドーを待ちながら』ってベケットの?

私: はい、よく知ってますね。

※: 私も演劇にはちょっと詳しいんで。…ちょっと旗揚げには難しいんじゃないですか。

私: 今思えばね。でもその頃は怖いもの知らずっていうか。ま、コンツェルト時代にはずいぶん観てたし、チェーホフ卒論で書いて、ま、できるかなって、思いこんじゃって。

※: スタッフは?

私: なぜか、その頃、アテネフランセっていうフランス語の学校行ってたんです。全然モノにならなかったけど。

※: それが、なにか。

私: そこでフランス人が演劇クラブ作っていて、全然フランス語話せないのに、入れてくださいって、いったんです。そうしたら、照明さんがね、私と同じように、アテネフランセの学生さんで。聞いたら、プロの照明さんなんです。で、近々旗揚げするんですってお願いして、やってもらえることになって。

※: 強引ですね。

私: 躁でしたからね。すてきな女性でした。ほかに、舞監とか、適当に後輩に頼んで。

※: …いい加減ですね。でも、稽古はずいぶん激しかったとか。

私: ええ、実は、私もともと体育会系だったんです。高校時代はハンドボールやって県大会優勝までいってるんですよ。

※: そうは見えないですね。

私:よく言われます。ですので、肉体練習とか、発声練習とか、がんがんやって。外大のトレーニングセンターとか無断で借りてトレーニングしたりしてました。あと、アクターズスタジオとか通って、役者の訓練もしたんですよ。これは向かなかったけど。

※: 演技下手ですもんね。

私: そうですね。でも、ほんと夢中になっちゃったんです。スイッチ入ったというか。当時出ていた演劇理論なんかも読みまくりましたね。ブレヒトとかピーター・ブルックとかグロトフスキーとか、寺山修司とか鈴木忠とか。戯曲も昔のものから新しいものまで、読みました。別役実とか唐十郎とか清水邦夫とか竹内銃一郎が好きでした。それから、演劇論、身体論とかね。今日本語教育でも流行っている竹内敏晴の本とかもよく読んで、実際稽古に取り入れてました。寝にょろとか、声当てとか、面白かったですね。発声練習も、バフチン専門の伊東先生が、実は早稲田グリークラブ出身で、腹式呼吸がすごく上手いんですよ。稽古つけてもらったりしました。芝居も、ずいぶん観に行きましたね。小劇場系が中心でしたが。今ほど高くなかったし。

※:ようやく夢中になるものを見つけた感じですかね。

私: そうですね。

※: 稽古はどんなところでやったんですか。

私: もっぱら中野区の公民館です。野方に青年館というところがあって、ほんとお世話になりました。一年に一回青年館祭りというのがあってね。自分たちも出たりしました。小さい空間でね、清水邦夫とか岸田国士とかの小品を実験的に演じたりしました。…それは楽しかったな。中野区には、芝居の稽古できる公民館がいっぱいあって。演劇フリーターもたくさん住んでいたんじゃないですか。

※: …ところで、生活費とかどうしてたんです。仕事辞めちゃったでしょ?

私: いろいろアルバイトしました、なんか、そういうことが許される時代だったのかなあ。半年に一回は公演するでしょ、公演期間は小劇場だから長くて1週間ぐらいなんですけどね。でも稽古もしなくちゃいけないでしょ。ですから、日雇いとか、芝居に理解してくれるところじゃないと働けませんでしたね。

※: どんなアルバイトを?

私: 多かったのが、工事現場とかへ派遣される仕事ですね。前の日電話しますね、明日ありますか?って聞くと、事務所からどこどこ行ってくれって言われて。ま、日雇いですね。工事現場の搬入とか割が良かったですね。パネルのような資材とか、絨毯とか、重いけど、運んじゃえばそれで終わりだったし。あと職人さんの補助、たとえば壁紙貼とかね。もう関東圏内ならいろいろ行きました。リゾートホテルのプール掃除を3日かけてやるとか、家の解体とか、ドブさらいとか。ちなみに一番長く続いた事務所が、元商業演劇の俳優だった人が社長している会社でね。「さとちゃん」とか言われて、いろいろ面倒みてくれました。3日に一度ぐらい事務所に給料取りにいくんですけど、よく奢ってくれました。その頃は、ミュージシャンとかまだ夢見るフリーターもまあまあいましたね。バブルはじけたとたん、急に平均年齢上がったけど。不動産関係の人やイラストレーターなんかも日雇いで働いていました。

※: へえ。

私: 派遣以外の仕事だと、葬儀屋の仕事とか、商業演劇の舞台の大道具とか、アパレルの服の検品とか。

※: いろいろやってたんですね。

私: そうですね。そういえば、外国人労働者もいましたね。私、アルバイトを通して、社会には多様な人がいるんだなって、学んだ気がします。外国人だけではなくね、いろいろな意味でボーダーの人たちがたくさんいた。…こういう環境の仕事って気に入ってたんですけどね、さすがに30歳を越えてくると、身体きつくて、塾講師とかするようになりました。でも、塾講師ずっとしてると、罪深くなってくるんですね、自分のやってることが、これに何の意味あるの?とかね。今に繋がってる気がします。

※: 劇団の話に戻します。2回公演までは既成の脚本で、3回目からはオリジナルになったとか。

私: そうですね。旗揚げがゴドーでしょ、2回目が明大前のキッドアイラックホールというとこで、竹内銃一郎の「ひまわり」というのをやりました。だいぶ劇団員が増えてきてね。高校を卒業したての子まできて、これはちょっと真剣にやらなくては、やばいな、という状況になってきて、宣伝とかも、チラシお金かけて作ったり、自分たちなりにちゃんとやるようになったんです。…3回目に、なにやろうか、ということになって、いつまでも既成のホンやってるわけにはいかないし、とりあえず私が書いたんです。

※: どんな内容なんですか。

私: 親殺しですかね。極めて個人幻想的な物語でした。みんな辟易したろうな。

※: …そうでしょうね。その後は。

私: 全部説明するのは面倒ですが、自分の書いたものを分類すると、文学作品からイメージもらったものと、社会的な出来事からイメージもらったものと、その他に分けられるかなって思います。文学作品では、カフカや折口信夫や原民喜とかブルガーコフとか、チェーホフやベケットとかのパロディとかもやりました。社会的な出来事はいろいろですね。オウム真理教的なものとか、若者たちが共同体作ってそこで惨劇が起こるとか。割と思想、吉本隆明とか、柄谷行人とかに触発されてアイディアが生まれることもありました…細かいことは、もう忘れました。

※: その頃は小さい劇場がたくさんありましたよね。

私: そうですね。駒場アゴラとか、池袋のシアターグリーンとか高円寺の明石スタジオとか、何回か使いました。…今でもあるんですか?全然、行かなくなっちゃったな。

※: あるんじゃないですか。

私: 駒場アゴラはね、青年団が売れ始める少し前の時期で、みなさん、黙々と走っているのを、よく見かけました。これ、駒場アゴラで初めて演じた時の写真です。そうそう、芝居のタイトルが『断食家族』っていうんですけどね。『万引家族』の20年以上前のネーミングにしてはいかすでしょう。

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※: 一番思い出に残っている作品は何ですか。

私: うーん…「むらむらするの」かな。

※: どんな話ですか。

私: 都会でいきづらさを感じる若者たちが、過疎地の村でコミュニティを作ってくらしているんですが、そこでささいな出来事から最後には破滅を予感させる場面で終わり。それと並行して、Iターンした2人の男が、子どものときに森で犯した犯罪の物語が絡んでいくという。…でもなんで思い出かっていうと、自分で書いたものを、他の人に演出してもらって、自分は演技もしたというので、面白かったです。自分が写っている写真が一枚ありました。

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※: 何してんですか。

私: 何だっけな。村のバレーボール大会に向けて、がんばろう、みたいなシーンかな。あと、こんなのも。

※: これは?

私: ある劇団の客演したときの写真。

※: 何してるんですか。

私: 記憶失った男かな。

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※: そのまんまですね。探すといろいろ出てきそうですね。脚本は今でもあるんでしょ。

私: ありますけどね、見せるわけにはいかないなあ。書庫のずっと奥に封印  

してます。

※: いつか書き直したいって思ってるくせに。映像はあるんですか。

私: 基本的にはね、あんまり映像に残す主義ではなかったかな。生ものですから。…そうだ、写真を探してたらね、こんなのが出てきました。

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※: 何ですか。

私: 同人誌です。その頃ね、元コンツェルトの仲間たちと同人誌もやって  

たんですよ。雑誌の名前は「ポエチカ」といいまして。こうやってみると  

錚々たるメンバーで。

※: へえ。

私: 今はみんな偉くなってしまいました。毎日新聞の編集者、ロシア文学研究者、社会学者、役者。でも、その頃はみんな訳わかんないんですよ。だから、いろいろ書いていました。評論、詩、小説、翻訳とかね。立教大学の近くにあるマダムシルクっていうバーでね、みんなでお酒飲みながら合評会とかしてました。周りの客は迷惑だったろうなあ。

※: 出た、マダムシルク。

私: この店にはもうほんとうにお世話になっていました。劇団員とも行くし、一人でも行ってたな。さっちゃんとかゆかさんとか。…懐かしいな。閉店まで飲むでしょ。もう電車終わってるから、都電の線路伝って帰るんです。池袋から大塚、その後の駅だったかな?歩くと気持ちいいんです。

※: 演劇に戻しましょう。何が楽しくて30代半ばまで。しかも結局モノにならなかったんでしょ?

私: そうですね。

※: 両親には30歳までと言いながら、36歳までやってしまった。しかも親や教師や友だちにも借金をして。何やってるんですか!

私: 面目ないです。

:※ たまたま始めてしまった芝居を、どうしてやめられなかったんですかね。

私: …どうしてですかね。売れる売れないはともかく、演劇って自分に合った表現手段でしたね。

※: はあ。

私: まず、戯曲を書きますね。これは極めて個人的な表現段階です。その後、役者に脚本を見せて、稽古で練り上げていく、これは個人でつくった作品を一度解体して、身体的、協働的に表現をする段階です。私は演出もしたんですが、それは全体的なデザインに関わっていて、また別の表現です。こんな感じで幾重にも異なる表現手段が重なって、作品が創造されていく、楽しいですよ。で、そのように作り上げた世界を舞台で表現します。でも、本番も1週間で終わりです。最後の公演が終わって、みんなで急いで片付けると、そこには何もない。数ヶ月かけて作ってきた世界が終わる感覚も、なんかよかったです。世界を何回も生き直せるというか。上手く説明できないんですけど、分かります?

※: だいたいはね。…そんなことを、1年に2~3回やり続け、気づいたら36歳になってしまった。

私: まあね。

※: やめたきっかけってあるんですか。

私: いろいろありますけどね。直接の原因は人間関係に疲れたことかな。躁もそろそろ終わりに近づいていたのかな。結局、私、演劇人になれなかったんですね。

※: はあ。

私:本物って、やっぱりすごいですよ。全てにおいて妥協ないし。私はそういう世界で生きるには、いろいろなものが不足していたんだろうな、しかも圧倒的に。それが分かったんです。

※: ま、世界の終わりもこなかった。

私: ははは。

※: 最後の公演が終わって翌年、つまり37歳ですか?奥さんの稼いだお金で、二人でロシアに行ったんですよね。

私: ええ、妻がコピーライターのアルバイトでたくさんもらって。ワコールのコピーライターかな。1週間ぐらいでしたが、サンクトペテルブルグに行きました。新婚旅行のつもりで。

※: 新婚旅行って?

私: 33歳の時に結婚したんですけどね。旅行とか、何もしていなかったので。

※: よくもまあ、奥さんのご実家は結婚を許してくれましたね。

私: そうですね、でも、この話はもうおしまいです。あなたの物語の中に私を入れるな、と妻にきつく言われていますので。

※: というと?

私: 私、楽しそうだったでしょ。

※: ええ。

私: 私にとって、演劇って、ダメだダメだと言っても、どこかノスタルジックなお話なんです。

※: はい。

私:でもね、あるとき、妻に言われたんです。演劇の時なんて、私にはいい思い出は一つもない。妻とは、劇団で知り合ったんですがね。…つまり、物語は一つじゃないってことです。同じ出来事を共有していても、妻にとってはね、思い出したくない経験がたくさんある。

※: なるほど、ではこれ以上聞きません。…36歳のときに、あなたも、ようやく全うになろうと考えた。

私:全うになろうというか、この生活を、これ以上続けたら、ダメだという危機意識もありました。ま、今思えば、ぎりぎりの選択だったかなと思います。

※: それが日本語教師だった。

私: そうですね。演劇をやめる、というのが先かな。

※: ロシアに旅行して、日本語教師に興味を持たれたとか。

私: ええ、ロシア人の通訳さんがいましてね。すごく日本語がお上手で。ああ、外国の人に日本語を教える仕事があるんだなあ、と。ロシアに行きたいというのもあったんですね。…もちろん、1980年代は、教会の女の子に話を聞いたり、新聞で求人とかよく出ていて、知っていたんですがね。自分もやってみたいなあと思ったのは、ロシア旅行がきっかけじゃないかな。

※: で、演劇をやめて、日本語教師養成講座に入った。

私: はい。…でも、これで話は終わりにしましょう。

※: え、これからやっと始まるんじゃないですか、日本語教師の物語が。

私: おもしろくないですよ。日本語教師の物語は。

※: じゃ、最後にひとつ。あなたにとって演劇って何だったんですか。職業にもできず、挫折したわけでしょう?

私: うーん。私が「大人」になるために必要な時間というか。…長い祝祭でもあったかな。…やっぱり分からない。

※: 分からない?

私: あの頃と今が繋がっているようには、全然思えないんです。人に演劇をしてたっていうと、日本語教育に活かさないんですかって言われるんですが、そんなに簡単じゃないんです。全然繋がっていないんだもん。

※: …全うな人間になることと引き換えに、過去のあなたを失ったのかもしれませんね。

私: でもね、この間の年次大会(注2)でも思ったんですが。

※: ええ。

私: 過去を断ち切るばかりじゃいけないんじゃないかって。この歳になって思ったんです。これからを生きていくためにも、物語の語り直しが必要なんじゃないかって。

※: そこで私とおしゃべりを始めたと。

私:ね、私、どうしたらいいんでしょ。

※: そんなの自分で考えなさいよ、のび太じゃあるまいし。

私: ドラえもん!

※: 大人だろ。自分で考えろ!

私:  むむむ。

 

※と私のおしゃべりはこの後も続くのであった。

 

終わり

 

​注:

[1]  神奈川県立川崎図書館、国会図書館、北大スラブ研究センター等で読むことができます

[2] 言語文化教育研究学会第七回年次大会「アートする教育」2021年3月