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私の日本語教師物語

 

 

甘利実乃

2021/02/11 19:09

 

 私は今年で数え49歳になった。この歳になると、ずいぶん長いこと生きてきたものだとしみじみと人生を振り返ることがある。そんな私の人生、特にこの10年ほどの人生について振り返ってみての文章をネットに上げていたところ、お声をかけていただいた。そこで、私の日本語教師としての物語としてもう一度人生を眺め直してみることにした。

 私が生まれたのは昭和48年の夏のことだ。私の人生は、はざまの中に始まったと言って良いだろう。祖父母は外国人であったので、家の中では日本の文化と祖父母の国の文化がいつも混ざっていた。宗教的にも何においてもそうだった。そんなごちゃ混ぜのはざまの世界で育った私だったが、ついに3歳くらいの時に、自分の体自体がはざまの状態であることに気が付いた。

 人間の子どもの場合、鏡に映った自分の姿や、写真の自分を見て、それが自分だと認識できるようになるのは3歳くらいだと言われている。私もある日、自分が写った写真を見せられて、初めてそれが自分自身であることを認識した。それは私自身にとってはあまりにも衝撃的な事件だったので、今でも鮮明に覚えている。

「これは私じゃない!」

 私は写真の中の自分の姿を見て、直観的にそう思い、そして、すぐに自己嫌悪感を抱くようになった。それがどうしてなのか、今となっては簡単に分かるのだが、そのときはとにかくほとんどパニック状態で、自分を自分として到底受け入れられなかった。

 私は自分のことを女性だと思っている。これは物心ついてから一度も変わったことはない。今在籍している大学でも、当然女性としてデータベースに登録されているし、住居としている大学内の寮においても女性階に普通に暮らしている。

 しかし、元々はそうではなかった。

 3歳の時に見た写真の中の私は、男の子の格好をさせられていた。そして、横にはかわいいスカート姿の「弟」が一緒に写っていた。一体どういうことなのだろうかと思われるだろうが、そんなに難しい問題ではない。

 私は長子として生まれたのだが、私の家の文化では、長男を産むということが母には期待されていた。生まれたときに私は――実は今でもそうなのだが――今ひとつ性別が特徴的ではなかった。それでも両親は男の子であることを願って役所に登録を出した。1年8ヶ月ほどして次子が生まれた。今度は性別上ははっきりしていて男の子だった。しかし、なぜか両親は「弟」を女の子として育てていた(戸籍上は男)。

 それが私が3歳頃の我が家の状況だった。

 私と弟は、顔がそっくりだったようで、外に出ると必ず「双子ですか?」と聞かれることが多かった。だからもし、私が女児として、弟が男児として入れ替わっていたとしてもなんの違和感もなかっただろう。実際、現在、ふたりはそのようにしておのおのの性別を生きている。

 私について言えば、もう一つ体に大きな問題を抱えていた。それは生まれつきの重い心臓病だった。当時も今も根本的な治療法はまだ存在せず、私にとって死はいつも身近な存在であり続けている。

 さて、家の中では、多言語多文化多宗教の状態であったことを冒頭にほのめかしているが、実際のところは、両親は、私を純粋な日本人として育てようとした。だから、祖父母の言葉をきちんと教えようとはしなかった。ただ、テレビの番組や絵本などを祖父母の言葉で見ることまでは妨げなかったし、当時、アナウンサーの仕事を辞めて翻訳の仕事をしていた母は、仕事が終わったあとには、タイプライターを私に自由に使わせてくれた。本当は家に1台しかない仕事の道具なので、小さな子どものおもちゃにするのは嫌だったとは思うのだが、私がタイプライターで遊べることを知っているからこそ母の仕事中はタイプライターの音を聞きながらおとなしくしていることのほうに、母はメリットを感じていたのだろう。それに私もそんな魔法のような道具をぞんざいに扱うことはなかった。

 幼稚園に通うようになってからは、ますます私の周りの世界は、はざまの様相を呈してきた。幼稚園はフランス系の女子修道会に付属していたので、シスターたちの国籍も多様だった。私のいた頃は、フィリピンから来ているシスターもいた。日本語をベースにしながらも、他の言語も飛び交い、文化はカトリックのキリスト教が基盤ながらも、日本の伝統的な文化行事も取り入れていた。私にとっては、こういったことが原風景となっている。

 ここまで読むと、少し変わっている程度に見えるかもしれないが、本当のことを言うと、母は精神的にとても不安定な状況に置かれていたので、家の中は私にとっては安心できるような場所ではなかった。今ならば児童養護施設に保護されても仕方ないような状態だった。母はADHDで心臓病で性別のはっきりしない私を抱えて相当なストレスにさらされていたことが分かる。しかも、実家を救うために自ら政略結婚に臨んだ母だったので、自分の人生を生きているという実感もなかったのだろう。家の中では、母が自分を卑下しながら、私を罵りながら、そして、私や弟に手を上げながら、結局最後は母が嗚咽するという光景を私は見てきた。自由な人生を送れないことがどれほど苦しいかということを私はこの時代に身をもって感じていた。

 私の楽しみと言えば、人生で初めて自分から欲しがって買ってもらった本を毎日眺めることだった。それは、携帯用の小さな漢字の熟語辞典だった。もちろん大人用である。買ってくれた父は、まだ小学校にも上がらない私がそんなものを欲しがることが理解できずに最初は渋っていたのだが、どうしてもとねだる私に負けて買ってくれた。実際のところは、私はまだひらがなも十分に読めなかったのであるから、なぜ、その辞書を欲しがったのかは分からない。覚えているのは、辞書を開いて中を見た途端に湧き上がった「欲しい!」という強烈な思いだけだ。そして、その辞書は、大学に上がる頃まで、手垢にまみれてボロボロになるほど使い込まれることになった。私の本格的な言語との出会いの瞬間が、その辞書だったのではないかと思う。

 一方、両親は私に祖父母の言葉はがんとして教えようとしなかったので、私はかなり不満に思っていた。と言うか、焦っていた。私が5歳くらいの時に、祖父母の国(当時はとても遠かった)を訪ねるという話が出た。私は、祖父母の国の言葉がしゃべれないものだから、あることをとても心配した。それは、「おばあちゃん、カルピスが飲みたいから、作って!」と頼むにはいったいどう言ったら良いのかが分からなかったからだ。子どもの心配事というのは案外そんなことだったりする。結局、そのときは祖父母の国には行けなかったのだが、言いたいことを言えない苦しさと、言いたいことを言いたいという欲求は、しっかりと私の心の中に刻み込まれた。

 さて、ここからは少し時代を早足に見ていこう。私は生まれつきの重い心臓病であるから、免疫力も極端に低く、ほとんどいつも病気をしているような状態で、実際に小学校に上がる前には死ぬ直前にまでいったこともあり、周りの大人からは、「この子は中学生になるまでは生きられないだろう」と言われていた。面と向かって言われたわけではないのだが、大人のひそひそ話というのは子どもは聞き逃していないものだ。だから、私は、性別に強い違和感を感じながら――実際、典型的な男装をさせられると吐いたり熱が出てしまうほど苦しみながら――生きていたのではあるが、自分の体の置かれた逆境によって救われていた。なにせ、中学生なって、セーラー服ではなくて詰め襟の制服を着なくて良いのである。あとちょっと我慢すれば天国に行けるのだったら我慢しよう。そんなふうに考えていた。私はこんなふうにわりと楽観的なのだが、だからこそ、今まで生きのびてこられたのだろうと、今になってつくづく思う。

 小学生時代は、2回の転校を経て、結局私は、寮のある中高一貫校に逃げ込むこととなった。やはりカトリックの修道会に付属した学校だったが、今度は、シスターではなく、ブラザーたちの修道会だった。こういった教育の面では私の希望を金銭的には支援してくれた両親には感謝しなければならない。ただ、12歳の時をもって、私の心は原家族とは切れることになる。私にとっては、ここからは一人旅の人生に船出することとなった。

 中高は男子校ではあったものの、とてもジェントルマンシップにあふれた学校だったので、寮に住んでいてもそれほど苦しむことはなかった。体のことについて何か言われることはなかったし、浴場でも体の繊細な部分は絶対に人には見せないという文化だったため、楽だった。なによりも、寮母さんたちが私をべたべたに可愛がってくれたことが私にとってはとても嬉しかった。休憩時間のお茶会に入れてくれたり、毎日私の元にお菓子を置いていってくれたりした。他の生徒とは何かが違うことを分かっていたのだと思う。教頭先生からは地理を習っていたのだが、大学受験まで1年ほどになったときには、国立大学の女子大ならば、過去の判例から男子生徒でも入学できることを教えてくれた。この判例は、テストケースとして作られたもので、実際に裁判を起こして入学した学生は、さすがに女子大の雰囲気にはついていけずにほどなくして辞めてしまったとも聞いたが、「わたしだったら絶対大丈夫なのにな」と思ったものだ。この判例は使われることがおそらくなかったため、もう誰も覚えていないだろうが、そんな判例が日本にはあって、実際にそれに基づいて進路を考えてくれた先生が昭和から平成に移り変わる頃の時代にいたということは、ここにも記しておきたい。

 私は、結局は、両親の希望で法学部に進学しなければならなかったので、女子大には進むことを諦めたのだが、やはり、「もしあのとき」という気持ちは今でもある。私は国語や英語、フランス語などが大好きだったので、女子大に行ったとしたら、きっと言語の道を選んだだろう。もちろん、当時としては、性別に問題を抱えた者は、人権が事実上大幅に制限されていたので、その先の進路があったのかは分からないが、それでも言語の道を選んだと思う。

 さて、大学に入ったはいいが、法律自体にはなんの興味もなかったので、実際には教養学部時代は計算機科学などの科目に熱を上げていた。計算機(つまりコンピュータのことだが)は、私が小学生4年生の頃から興味を持ち始めた世界だった。コンピュータ言語という人工言語を用いて計算機と会話をしていくことをとても楽しいと思ったからだった。

 専門の法学部に進む前に、すでに1年生の時には昔の司法試験の一次試験には受かってしまったのだが(一次試験には法律科目は特になかった)、法律自体には興味が持てなかった上、ほぼ完全に男性社会であった法曹界で男性のふりをして生きていくつもりはなかったので、私はここで一旦ドロップアウト状態になってしまった。人生の目的を喪失してしまった。法学部のほうは、法社会学という大変面白い分野と出会えたので、なんとか続けていくことができたが、なにしろ、「もう、男性として生きることはやめよう」と19歳で決断してしまったので、道がなかった。社会とつながって生きるには、東京ならば、歌舞伎町か新宿二丁目にいくしかないような時代だったが、私には向いているようには思えなかった。

 そんなとき、3人の重要な人物との出会いがあった。ひとりは、大学の先輩で、卒業してから個人商店から始めてずっと実業の世界で生きてきた人、もうひとりは、法律系の大手出版社で長年働いた末、自分の出版社を経営している編集者であり経営者である人、そしてもうひとりが今の姉であった。この3人との出会いがなければ、私はきっと全く違った人生を歩んでいたか、歩み自体は途切れていたに違いない。

 最初の先輩からは、仕事というものの自由さを学んだ。なにも就職にこだわる必要がないことに気が付かせてもらった。そして、次の編集者からは、本の編集や出版についての薫陶を受けた。なんと、絶対に失敗しない方法を教えてもらえた。そして、姉は、私の仕事と人生をずっと支えてくれる存在となっていった。

 大学卒業後は、見聞を広げようと思って船と鉄道で世界をぐるっと回ってみた。それから、仕事を始めた。とは言っても1坪もないような事務所があるだけのフリーランスの仕事だった。いろいろと考えた末、人と会わなくても済む仕事を考えてみた。編集と出版はそもそも自由度が高いので、性別が問題になりにくいし、姉が外とのことは担当してくれるので、真っ先に取り入れた。次に、姉の勧めにより、翻訳も始めた。私は大学時代に自分の言語能力の限界に気が付いてしまったので、乗り気ではなかったのだが、「できるはずなのにやらないのはおかしい」という姉の言葉によって、仕事にしてみたところ、確かに重要な柱となった。そして、4つめが、情報処理であった。当時はまだビッグデータという概念はなかったのだが、先に紹介した大学の大先輩の考えに基づいて、ビッグデータの先駆けになるようなものをデータベースとして整備して企業や官公庁にライセンスするということをしたところ、営業が全く必要がないくらい需要があった。ただし、当時の私はまだ表には出られるような心境ではなかったため、姉を間接的に挟んでひっそりと社会とつながり、目立たずに仕事をしているような感じだった。

 こうしなんとか生きていけるようになっていった20代だったが、心はまだ荒れていた。虐待の後遺症が大きかったことと、性別の問題がどうにもこうにもならなかったことだった。抑うつ状態になったり、苦しみから姉に八つ当たりすることが多かった。しかし、姉は決して私を見捨てることがなかったため、30歳に向かって私はだんだんと気持ちを落ち着かせるようになっていった。私の幸運だったことは、常に私を見守って支援してくれる人たちがいたことだ。全くの孤独だったら、生きてはいけなかった。そのことは、後々の私の生き方に大きな影響を与えることとなった。人は誰かの支えが必ず必要である。

 31歳のある日、ついにお迎えが来てしまった。極めて重症の急性心筋梗塞になったのだった。いつかは来るものと覚悟はしていたものの、「もう来てしまったか」と正直思った。「結局何もたいしたことはできなかったな。姉にも恩返しできなかったな」と思った。「余命は1年くらいで、階段を1段上っただけで即死します」と告げられて、まるで常時全速力でマラソンをしているかのような息苦しさの中、安楽死も考えたが、なんとなくふと、「今回はまだ死なないのではないか」と思った。そうしたら、翌日、世界最先端の心筋再生治験の話が来た。まだiPS細胞が発明される前の時代であるから、それこそ僥倖に他ならなかった。半分死んでいた心臓が、3分の2までは再び動くようになって、私の命は最大30年くらいは延びることとなった。

 そのとき、個室のICUに寝かされていたのだが、外の桜の木の若葉を眺めていて涙が自然に流れ、3つのこと願った。

 1つは、本当に好きなことをすること、もう1つは、また普通に息ができるまでに回復すること、そして最後に「あれ」をなんとかすること。「あれ」というのは、性別の問題のことだったのだが、そのときはまだ自分の性別の問題が具体的には分かっていなかった。生殖機能がないことは中学生の時に密かに調べて私は知っていた。「男性」なのに発達は不十分だったし、高校生くらいの時から胸も発達してきていた。自分の心の中は女性だが、そもそも「普通」を体験したことがないのだから、その心を女性とも言い切れなかった。だから、いつか元気になったら、性別のことを何とかしようと願った。

 リハビリの期間は長く、5年ほど続いた。その間は、従来の仕事を縮小しながら、自分の好きな研究をしていた。私が好きなのは複雑系の世界と微積分、そして物理学で言うと波の世界なので、その世界を数学的、数理工学的に研究していた。それならば寝たきりでもできるし、興味も尽きることはなかった。この世界の不思議さを、数学という言語で描写していくことが楽しかった。姉は私を介護しながら自由に研究させてくれた。このことがのちに金融工学への応用や、現在している言語学への応用へとつながっていくことになった。

 2010年の師走に入った頃、私はついに姉に「あれ」について最終的な決断を話した。「カミングアウト」とも言えるが、すでに15年ほどを共にしてきた姉は何も驚くこともなかった。後に養母となる母に至っては、「そんなこと、1996年にはがきをくれたときのあんたの文章からすでに感じて知っていたよ」と言って、娘ができたことを非常に喜んでくれた。そもそも私は養母との相性が非常に良い。と言うのも、姉はとても男性的な面が強いので、母とは趣味も話も合わなかったところへ私が来たものだから、母はようやっと心置きなく話ができるようになったからだ。だから、私が男性であることよりも女性であることのほうを素直に何倍も喜んでくれた。

 ただ、こういうことはまれである。祝福を持って受け入れてもらえることは、少なくとも私の世代ではほとんどない。現に、私の産みの両親は、「死んでほしい」と言った。同じように親に拒絶されて死んでいった者は多い。自死しないまでも、誰の助けも得られずに孤軍奮闘して過労死してしまった私と似たような当事者も少なくはない。現在ではさすがに子どもの性別に問題があっても両親が支援してくれることが多くなってきたが、それは、そこまでに至る多くの屍の上にようやく築かれた結果である。

 私は、女性としてのリハビリ期間――心臓病なので、何も身体的な治療はできなかったので、慣れの問題なのだが――を経た上で、初めて社会にデビューした。それに先だって、家庭裁判所が私に適応できる法律と判例を使って、最大限の支援をしてくれた。と言っても、私に対して正式にできたことは、名前を変えることだけしかなかった。それほどまでに、私のような例外的な存在にはまだ法律は追いついてはいない。しかし、社会の実運用上は日本は実は進んできている。法律の根拠は当時はまだなかったが、健康保険証の性別は空欄にしてくれたし、戸籍に関するもの以外の性別は全て希望通り、女性に変えてもらえた。パスポートはおもしろいことに、ぱっと見には女性に見えるように加工してくれている。だから、実のところ、もともと中性的であった私は実生活においては困ることはあまりない。

 社会人として世に出てからの私は、「わらしべ作戦」という戦略を立てた。要するに、来るチャンスは何でも素直に受け入れていこうということなのだが、最初のチャンスは、役所で判決に基づいて名前を変える手続きが全部終了して外に出てすぐにやってきた。私の住む街の神社で女性職員を一般募集していた。それで、すぐに申し込んで面接に行き、そのまま次の日から、神社の職員として、社務所などで働き出した。もちろん私は神社の世界については何も知らないに等しかったから、就職してからたくさんのことを勉強した。そしてそれは、のちのちに日本語教師として働くようになったときに大いに役立つことになる。元神社職員の日本語教師というのは私はまだ会ったことがない。しかも、私のベースはキリスト教なのだからとても変わった存在だ。来るもの拒まずというのはこのような面白い融合をもたらすものだと思う。

 神社の仕事は夕方から夜の担当だったので、半年経って慣れたところで、うちのすぐ近くの町工場でこれまた女性工員を募集していることを発見して、すぐに働き出した。神社も町工場もそうなのだが、まだまだ性別ごとの職域が存在することがある。それを良くないことだと思う人もいるだろうが、私にとっては、性別が決め打ちされているということは、非常に楽なことだった。その仕事は女性しかしないのだから、どう見えようが、性別の問題が発生しない。どちらでもいいというほうがかえって大変だっただろう。だから、私にとってはとても良い職場を得ることができたと思っている。神社には7ヶ月後、会社には1ヶ月後にカミングアウト(「実は戸籍はまだ……」という話)をしたのだが、どちらも「そのまま今まで通りで」とあっさりと受け入れられた。

 なかなか日本語教育の話に入らないので、タイトルとかけ離れているようだが、ここからようやっと、日本語教育の世界が私の元に近づいてくるチャンスがやってくる。

 まず1つには、町工場の社員の半分は外国出身者だったということだった。町工場なので、手で覚えることが多い。だからそんなにも日本語ができなくてもなんとかなる。それで、ごくごく簡単な日本語会話しかできなくて、日本語に関しては文盲状態の外国人社員がほとんどだった。出身国は様々なので、母語も様々だった。それで、そのうち、私に日本語を教えてほしいという同僚が現れるようになった。なぜ私を選んだのかは分からないが、なんとなく頼みやすかったのだろう。ここで、私はいわゆる「地域の日本語教育」の世界に入っていくことになった。同僚の子どもにも教えることもあったので、子どもとのつながりもできた。

 神社には付属の会館もあり、そこでは、いろんな先生たちが、英語を教えていたり、ペン習字を教えていたり、プロの人たちの書道の会も定期的に開かれていた。子どももたくさんやって来る。とにかく人がたくさん集う神社だった。

 こういった環境で6年ほど働いているうちに、だんだんと自分の好きなことが分かってきた。

 1つには、やはり言語というものが大好きだということだった。神社では毎日、悩みを相談に来る人と話をするし、雑談だけをしていく人も多い。神社は人間関係が全てなので、とにかく言語(特に社会言語学的な側面)が最重要になってくる。町工場では、すでに書いたように、多文化多言語環境なので、日本語も外国語の力も活かせた。

 そしてもう1つは、「自分の人生で一番悲しいことはなんだろうか」と考えたときに、それは子どもを持てなかったことだと気が付いた。神社や町工場の同僚の子どもと接しているうちに気が付いた。それまでは、姉とだけの生活だったので、気が付きにくかったのだが、やはり人生に大きく欠けているものは社会とのつながりを持つことではっきりとしてくる。

 そんなことを思っているうちに、私は腰椎椎間板ヘルニアで神経が圧迫され、3秒と立っていることもできなくなってしまうという状態になってしまった。心臓病だと全身麻酔を基本的にかけられないので、手術してくれる先生を見つけるのが大変だったが、内視鏡手術をしてくれる先生を姉が見つけてくれ、とりあえずは危機を脱することができた。

 しかし、職場に復帰したものの、もう前にようには体に負担のかかる仕事は思うようにはできない。さて、これから何をして生きていこうかと思ったときに、ふと、「日本語の先生になろう!」とひらめいた。このひらめきが素晴らしいものなのかどうなのかというのは、この業界にいる方ならなんとも言えないところかもしれないが、当時の私は何も知らないので、実に単純な思い付きだけで決めた。

 1年後をめどに日本語を仕事にすることに決めて、さっそく日本語教師養成講座に申し込んで通学することにした。とは言っても、仕事は神社と町工場の掛け持ちなので、事実上年中休みはなく、平均して毎日12時間半働いている状態の中での通学なので、尋常ではなかった。しかも、母の介護施設の費用を私も負担していたのでお金がなかった。そこで、私は何を思ったか、以前、同じように性別に問題を抱える当事者たちの会合に来てくれた風俗関係の仕事をしている当事者の人のことを思い出した。私は当時43歳だったが、その当事者も同じくらいの歳だった。様々な当事者とたくさん会ってきたが、風俗関係の人と知り合える機会というのは滅多にない。性別に問題を抱えた当事者たちが、風俗業界でどのように働いているのかというのは、以前から関心があった。かと言って、その業界はかなり危険である。そもそも運営母体が普通ではないので、簡単に入り込むことも脱出することもできない。そこで、当事者たちが自ら運営しているところを見つけて入れてもらった。

 そこで発見したことはたくさんある。例えば、現在の風俗業界に占める、外国につながりのある子ども(もう一応大人ということになってはいるが、本当の年齢は分からない)の多さだった。その団体は全国的に展開していたので、地方ごとにデータを見ることができたのだが、中部地方に至っては、全員が外国につながりのある子どもだった。外国人観光客からは、「純粋な日本人を」という指名が多かったが、私を含めて純粋な日本人などほぼいない。日常会話程度の日本語は皆できるので、適当にごまかして乗り切るしかなかった。

 なぜ、外国につながりのある子どもたちがそんなに多く風俗業界に流れ込んでいるのかは単純な理由である。皆、日本語の学習言語能力がなく、小学校くらいでドロップアウトしてしまったからである。父親が日本人というケースが多かったが、たいていの場合は、その父親は母親に暴力を振るったり、お金を出さずに母子を捨てている状態だった。だから、子どもたちは、かわいそうなお母さんのために働いているという気持ちだった。

 神社の仕事が夜9時に終わったあとに、そういった風俗店の事務所に行く。そういうことを1ヶ月も続けていると、だんだん私と話をしてくれる風俗嬢(戸籍上は男性である)が増えてくる。打ち解けてくれば、身の上話もしてくれるようになる。特に私は全国の事務(東京で一括して行われている)も任されることが多かったので、地方の風俗嬢(以下、同僚と呼ぶ)とのつながりも持てる。経営上のあらゆるデータも見ることができた。もちろん、どんな人がお客としてきているのかも全て分かる。そうやってあたかもフィールドワークをするように仕事をしていた。

 そんな中、「外国につながりのある子どもたちがこんな境遇で苦しまなければならないのをなくすためにはどうしたらよいのだろうか」と、同僚と話をしていたことがある。そのとき、その同僚は、「小さいときにちゃんと日本語を教えてもらって、学校で勉強できたら良かった。あなたは勉強の言葉ができるんだから、外国につながりのある子どもたちに日本語を教えてあげてよ」と言われたのである。そして、「私はもう助からないけど、子どもならまだ助かる可能性があるよ!」と、自分の境遇は差し置いて、子どものことを心配していた。

 私はその同僚の言葉に心を動かされた。そのとき自分のミッションに気が付いた。それで、日本語教師になるなら子どもたちの先生になろうと決心をした。

 しばらくして、私自身が性被害に遭ってしまって仕事ができなくなってしまったり、そもそも1日3時間という睡眠時間での毎日の仕事には限界が来て、私は風俗の場は去り、日本語の勉強に全精力を傾けるようになった。

 日本語教師養成講座に通い始めた最初の日に私は2つの恋をした。1つは言語学への恋。そして、もう1つは、言語学を教えてくれていた先生への恋だった。両者は不可分一体のものとして今でも私の心の中にある。実はそんなことも大きな動機付けの1つになっていることも書いておきたい。

 3ヶ月勉強したところで、私はその先生の大学に行きたいと思って、先生にそう告げた。そもそもその先生のいる大学がどこかも知らなかったのだが、それは今私のいる大学だ。無論、恋の告白などはしない。それは、望みようもないことだから。先生は大学院の入試問題をわざわざコピーして持ってきてくれた。

「問題を見てみたのですが、結構難しいですよ」と言いながら渡してくれた入試問題は確かにちんぷんかんぷんだった。とは言え、今更簡単に引き下がるわけにもいかないので、他には研究計画書の構造などを簡単に教えてもらって、勉強を始めることにした。ある程度は日本語教育能力試験と重なっているので同時に勉強しながら掘り下げていった。

 夏が過ぎ、9月からはチャイルドマインダーの資格の勉強も始めた。保育士の資格も大切だが、チャイルドマインダーの先生の考え方がとても良いと思った。子どもの日本語教育はかなり特殊な部分が多い。普通のやり方では上手くいかないことが多く、どちらかというと、チャイルドマインディングの考えの上に日本語教育を乗せていくと上手くいくというのが私の考えだ。そして、なによりも実践で学んでいくことが多い。私は子育ての経験がないので本当にすべてが一からだった。

 実践を始めるに当たっては、私の住んでいる自治体の地域日本語コーディネーターの先生の面接を受けてまずは自治体から委託される日本語教師となり、そのコーディネーターの先生が代表のNPO法人に入れてもらった。小中学生の取り出し授業と就学前児童の日本語教育を担当することになった。

 ここで、性的マイノリティと教育界の関係についての若干の説明が必要になる。基本的に、性的マイノリティが先生などの形で教育に携わろうとする場合、大きな壁が立ちはだかる。簡単に言えば、最初から箸にも棒にもかけてもらえず、排除されてしまうことが多い。公的な教育においても、家庭教師派遣センターのような私的な教育においても同様で、私も実を言うとそれまで数々の辛酸をなめてきた。私の知り合いだった当事者は、大学院を出て公立学校の教員の採用試験を受けたのだが、成績が非常に良かったにもかかわらず、カミングアウトをしたがために面接で落とされて自殺未遂を起こした。性的マイノリティにかかわらず、例えば男性だというだけで、保育士の資格を取っていても、女児のおむつ替えなどを問題とされて不採用になったり、親からのクレームがついたりするという現実もある。子どもの日本語教育についても、そのような中で私は生きていかなければならない。先生を職業としている者が、性的マイノリティ(特にトランスジェンダーなど)には極めて少ないように感じる。

 したがって、私がいくら子どもの日本語教師になりたいと思ったとしても、それは非常にハードルが高いことであり、普通のやり方では上手くいかない。他の人にはできないことができて初めて採用される。例えば、私の場合は、チャイルドマインダーの資格を持っていて、実際に保育園での勤務経験もあることなどが高く評価される。小学校に上がる前の子どもの日本語教育などは多くの日本語教師が不得意とするところだからである。また、発達障害児への対応もできない先生が多い。私自身がADHDという発達障害(精神障害等級3級)であるが、それが逆に有利に働くことがある。結局、定型発達の先生では、発達障害児(やその疑いが強い児童)は手に負えないことが多い。外国につながりのある全ての子どもたちに日本語教育を、という理念とは裏腹に、発達障害児は排除されやすい。排除しないにせよ、どのみち子ども自身が先生に嫌気をさして日本語教室に来なくなることもある。結局は排除されたのと同じである。その点、発達障害を持つ当事者の場合は、ある程度、その子どもの気持ちが分かるため、適切な対応をとれることがある。私の場合だと、自分と同系統の発達障害児であれば対応しやすい。そして、子どももそういう先生を指名してくる(指名制でなくとも指名してくるのである)。他の先生は、自分から発達障害児が離れてくれる結果になるのでホッとする。これらのことは、なにも他の先生方を貶めようという意図で書いているわけではない。日本語教師であればどんな学習者でも対応可能かと言えばそうではないということを示しているに過ぎない。そして、私のような者が入り込める余地があるとしたら、それは、どうしても私が必要とされる場合だけである。それ以外の場合は、9割くらいの確率で性的マイノリティ、もしくは、精神障害者というくくりだけで落とされてしまう。だから、どうしても戦略的に考えて進んでいかなければ、自分が届けたいサービス(この場合は子どもへの日本語教育を指しているが)を届けたい人に届けられないということになる。これがどれほど大変なことかは、おそらくは経験したことのある当事者以外には分からないのではないかと思う。

 さて、このような戦略の元に私は外国につながりのある子どものための日本語教師として出発することができた。そして、日本語教室に来る子どもの中でも、発達障害の疑いが強い子どもを相手にするようになっていった。そうして実践を積み重ね始めたのが今から3年半ほど前ということになる。

 日本語教師と同時に学童保育の先生も始めたのでさすがに忙しくなり、町工場のほうは辞めることとなった。給与的には比較にならないほど町工場の方が良いのだが、町工場の仕事は私以外の人でもできるからそうした。

 そうこうしているうちに大学院へ願書を出す時期が迫ってきた。ここで私は悩み始めた。実は、出身大学の卒業証明書は2つの学部から取らなければならないのだが、法学部は姓名をデータベース上で書き換えてくれたのに、教養学部は書き換えてくれないのである。そうすると、例えば私のような者でなくとも、結婚で名字が変更になった卒業生でも同じように戸籍の提出が必要となってしまう。たいていは女性が名字を結婚では変えるので、結局は、女性にとって不利な制度となっている。戸籍には、離婚などの情報も載ってしまう。私の場合などは非常に多くの個人情報をさらさないと、願書1つ出せないことになる。

 大学に臨むまでは、私はずっと性別に悩まされることなく過ごせる環境を整えてきたのだが、大学に入ることによって全てがまたリセットされてしまうのでは非常にストレスがかかる。だから、どうしても大学の入試の願書については事前に交渉が必要となってしまった。

 とは言え、入試課に電話して相談してみたところ、あまりにもあっけなく解決してしまった。単純に望みの性別を選べば良いという(性別なしも可能かについては聞きそびれた)。そして、入学したあとはもっと自由だとも。極めつけには、「ぜひ来てください」と言ってもらえた。これは今まであり得ないような対応だった。「検討します」「許可します」というのが普通の対応であって、「ぜひ来てください」などと言われることは、今までは経験したことがなかったからだ。もし、この言葉がなかったら、私は受験を諦めていたかもしれない。実際、受験料は締め切りの30分前、願書も30分前に出しているほど、ぎりぎりの闘いだった。「ぜひ来てください」の一言があったからこそ諦めずに頑張れた。マイノリティと呼ばれる人たちは、おしなべて常日頃、心ない言動に傷つけられてしおれていることが多い。「ぜひ来てください」という言葉は、入試という公平性を第一とする世界では必ずしも適切な言葉ではないかもしれないが、実にマイノリティを励ましてくれる素晴らしい一言だったと私は思っている。

 大学院も日本語教育能力試験も無事にクリアし、神社も退職した私は、その後は日本語教育と子どもの教育に全精力を注いでいった。外国につながりのある子どもの多い保育園では、大学への入学の前日まで働いていた。ここから先は、そういった中での経験を少し書いて、なんとか日本語教師物語風にして話を終えたいと思う。

 まず、保育園の話をすると、私のいた保育園はオープンキッチンにするために無認可の保育園としていた。その代わり、立ち入り検査を積極的に何回も受け入れていた。なぜ許認可保育園にしないのかといえば、オープンキッチンにこだわったからである。日本の法令では、保育園の調理室は、隔離された部屋でなければならない。しかし、果たしてそれは子どもの発達上、適切であろうか。料理をしている最中の匂いも音もしないまま、ぽんと出される料理と、料理をしている人の顔も見え、音もし、匂いもする中で、楽しみに料理を待って食べる食事には違いがあるように思われる。私はそういう点を譲らずに無認可にしていている点を気に入っていた。

 ただし、それは良いにせよ、私にとって保育園の最大の問題は言語教育だと思っている。私のいた保育園では、零歳児から3歳児まで、おおよそ幼稚園に入るまでのつなぎとしての児童を対象としていた。人間が言葉を獲得する上で非常に大切な時期である。ここで「良い子悪い子普通の子」が問題となってくる。どういうことかと言うと、保育園の先生たちにとって良い子とは、おとなしくて手間のかからない子である。零歳児であれば、いつもおとなしく寝ているような子である。手間のかかる子は、先生の頭の中では無意識に悪い子として認識されてしまう傾向がある。では、良い子はその後、どうなっていくのかというと、実は言語の発達が、悪い子よりも遅れたり劣ってしまうことがある。なぜならば、良い子は声をかけてもらえる確率が低いからである。実際、良い子をわざわざ抱いて話しかけながら面倒を見ていると、「みの先生、楽な子ばかりの面倒を見ないでください!」と、いらついた感じの声がかかることがあった。私は、どの子どもも同じように話しかけをしたいのだが、なかなかそういかない現実に困ってしまった。一般的に保育園の先生は、言語学者ほどは子どもの言語の発達に関する知識はない。手間のかからない子には手を出さないという慣習があるような保育園は心配である。ちなみに私の場合は、誰もが手こずる非常に人見知りをする児童を抱っこしては園内を歩き回りながらお話をすることをしているときに、その子があまりにも目を輝かせて好奇心いっぱいの様子で、いつものように泣いたりすることがなかったということでやっと評価されて、自由に子どもたちに好きなだけ話しかけられるという「特権」を得た。零歳児は確かになにか意味のあることをぺらぺらとしゃべるということはない。だが、目を見ていれば、確実に言葉に関心を向けていることが分かる。先生と一緒にものを見て、先生の言葉を聞きながら何かを感じている。私はそういう子どもの表情を見るのが大好きだ。だから、私は保育園では一日中子どもたちとしゃべる係のようになった。「いくらでもしゃべることがあるというのはすごいですね」と言われたものだが、そう、私にはいくらでもしゃべることはある。なにせ、それまで、子どもとはほとんどしゃべる機会がない人生を送ってきたのだから。

 次に、小学生1年生くらいが中心だった学童保育について語りたい。6歳7歳くらいと言うのは本当に「悪魔のよう」な年齢で、手を焼く先生も多い。私はその年齢は特に苦労はしないのだが、一度だけ苦労したことがある。それは、とてもしつこく性別を聞かれたときだった。たいてい、子どもたちは先生の性別はあまり気にしない。自分で適当に判断をしているようだ。だが、気にはなっているのは知っている。学童保育の先生はたいていは動きやすいように中性的な格好をしていることが多い。そうすると、私の場合は本当に中性に見えてしまう。どのくらいの割合で中性的に見えるのかを子どもたちに聞いてみたことがあるのだが、まず、見た感じの性別に関しては完全に半々に判断が分かれた。さらに、「先生は自分のことをどっちだと思ってると思う?」という質問も投げかけてみたのだが、それに対する答えも半々だったのだ。外見は致し方ないにしても、内面まで中性的に見られていたのかと少しショックを受けたが、嘘のない感想を聞けたことは大変参考になった。子どもの間で私についての性別問題が議論になることがあるので、たまにとても女性的な格好をしていって議論に終止符を打つことがある。基本的には、長期間接している子どものほうが、正確な(私が自認しているとおりの)判断を下してくれることが多い。しかし、たまにあまりにもこだわる子どももいて、差別用語も連発する子どももいる。他の子どもはそういう子どものことをたいていは冷めた目で無視してしまうのだが、私まで無視するわけにはいかない。胸を触られたり何やらされながらでも相手にしているが、さすがにちょっと疲れてしまうことがある。なお、この傾向は、日本人だけのクラスに多いような気がする。確証はないのだが、そもそも多様性のあるクラスでは生じにくいようである。

 ここで日本語教室に話を移すと、日本語教室では基本的には私の性別を気にするような子どもはいないのだが、もちろん皆無ではない。それでも私にとってはとてもやりやすい。元々がいろんな国からの子どもが集まっていて、子どもたちも日本人とは違うという点において日頃自分自身が苦労を感じている。だから、やはり、人に対しても違いを大きく指摘することが少ないように感じる。むしろ、同じ国の出身者同士で、その境遇の違いから軋轢が生じて喧嘩になってしまうことがある。元から違えば納得がいくのだが、元々は同じだという気持ちがあるものだから、かえって違いが気になってしまうのである。そんなときに、私のように性別も国籍も曖昧な先生が割って入ると、一気に空気が変わることがある。私は自分自身の異質性をそんなふうにして利用することがある。

 日本語教室で結構問題となることは他にもある。文化と価値観、あるいは基本的人権の考えの衝突である。例えば、ある国から来た家族の中では、まるで昔の日本のように男尊女卑の考えが根付いていることがある。しかし、だいたいにおいて、蔑まされる側のほうは、日本にいるうちにある程度、自分が女性だから大切にされていないのではないか、と思い始める。そして、自分の夢を追いたいという希望を持ち始める。例えば、日本で医師になりたいという希望を持つ場合である。しかし、ここで父親が障壁になってしまうことがある。「うちには息子にかけるお金はあるが、娘にかけるお金はない」という理屈を展開してしまうのである。その場合、母親も娘も父親に対して反対できないことがある。日本語教師としていつも接していれば、本人の進学希望ははっきりしていることは分かっているので、なんとももどかしく、悔しい気持ちがする。私のいた日本語教室は一人を除いては全て女性教師であり、平均年齢は60歳くらいだったので、皆、かなり、性別による差別には悔しい思いをしてきている。そういうこともあり、その父親に対して一生懸命、説得をする。しかし、どうしても譲らない父親もいる。そういうときは、最終的には、実は私たちには何も手を下す手立てがない。それでも諦めない私などは、生徒本人に何らかの形で働きかけることがある。一度は見学を希望していた日本語教師志望の大学生を連れてきて、15分ほどその生徒と雑談をしてもらった。その日、その生徒は父親を説得して、弟の学費は自分の働きの中からも出すからという条件で、定時制高校に行けることになった。私自身がそうだったように、先生によって人生が変わってしまうことがある。積極的介入は難しいことも多々あるが、良心の声に従って、生徒の幸せを祈って最大限のエールを私は送り続けたい。

 ここまで、子どもの話をしてきたが、実は私は、東欧でも教えていたことがある。最初はポーランドでインターンシップをさせてもらった。ポーランドは22歳の時に最初に訪れたヨーロッパの国であり、とても親日的だったので印象深かったからである。ポーランドでは、日本語学校や大学、個人指導など、多彩な経験をさせてもらったことによって、子どもより少し大きくなった大人になりたての若い人たちと接する機会を多く得られた。

 それから半年後、今の大学に入って最初の学期が終わったと思ったところ、セルビアのベオグラード大学で2年間客員講師として日本語を教えてみませんかというお誘いを受けた。協定校同士であることと、直前になって派遣が予定されていた人が行けなくなってしまったからというのである。私は自分が大学で教えるということは想像もしていなかったので驚いた。先にも書いたように、性的マイノリティにはなかなかチャンスは巡ってこない。だから、常に諦めの気持ちを持ちつつ何かに挑戦するという癖がついてしまう。このときは、勧めてくれた先生が、「失礼ながら、甘利さんはトランスジェンダーではないですか。私はそういう人にこそ行ってもらいたいのです」と言ってくださった。それで行くことにしたのである。「ちょうど誕生日にお話が来たので」と私はよく言っているのだが、真相を話せば、そういう所にこそ本当の理由があったりする。

 このセルビアでの経験はあまりにも濃厚すぎて、ここには書き切れない。興味のある方は、「Global Japan Office 活動日誌 セルビア」などで検索していただくと、2年間の私の活動日誌がさかのぼってかなり詳しく読めるので、ご笑覧いただければ幸いである。

 ここまで書いてきて、なんともまとまりのない文章で申し訳ないとは思うものの、私の素で書いてみた。話にまとまりはなくだらだらと続き、論理的な飛躍や急な展開が多いのが私の生来の特徴であるが、そのままにしてみた。なんとなく印象に残していただき、私のような者に出会ったときに思い出していただければと思う。

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