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教師物語

堀川智也先生の思い出



星野裕子

フランス・ナント市 
フリーランス日本語教師

長いあいだ使っていなかったFacebookを、ふと開いたのは去年の秋。大学時代の友人から、堀川智也先生が亡くなったという知らせが入っていた。そのメッセージを見た瞬間、つけていたラジオが聞こえなくなった。

 

 ご病気であまり体調がよくないということは風の便りで知っていた。先生とは20年以上も連絡をとっておらず、メールぐらい送っておこうかとも思ったが、今さら何を言えばいいのか、わからなかった。

 Facebookで連絡をくれたその友人とも長いあいだ音信不通状態だったのに、私が学生時代、堀川先生のことをとても慕っていたのをちゃんと覚えていてくれて、わざわざ連絡をくれたのだと思うと、そこでまた心を動かされた。

 

 堀川先生の授業をまだ数回しか受けていなかった大学3年生の春に、初めて帰りのバスで一緒になった。

 「星野さんは大学に来るのに、どのぐらい時間かかるの?」と聞かれて「1時間半ぐらいかかります」と答えた私に、まっすぐ前をむいた先生から「それやったら、僕はもっといい授業をしなあかん」と返事が返ってきたときが、一番最初に「この人はすごい」と思った瞬間だった。

 

 当時(1990年代半ば)の堀川先生の授業は、講義が寺村秀夫先生の『日本語のシンタクスと意味Ⅰ』を1年かけて読む授業。先生はいつも自分用のノートをめくりながら、バリバリの大阪弁で講義をしていた。「留学生に教えるときはいつも標準語やで」と先生が言うのを何回か聞いたが、確かめたことはない。

 尾上圭介『大阪ことば学』(岩波現代文庫)に書かれている「昨日まであった財布」の話と、「あべの橋駅で切符を買ったら、多く出てきたお釣りに驚いている女子学生に声をかけるおじさん」の話が、大阪弁を象徴する、先生お気に入りの小噺だったようで、よく授業中に引用していた。

 

 演習のほうは森田良行先生の『基礎日本語辞典』が「教科書」で、似たような意味や使い方の単語2つを、どこがどう違うのかということを例文をたくさん並べて分析するというものだった。

 「『基礎日本語辞典』に書かれていることが、本当に正しいかどうかを検討するという目的もある」最初にそう言われたので、『基礎日本語辞典』にはどこか欠点でもあるのかとずっと思いこんでいたけれど、その後サンキュータツオ『国語辞典の遊び方』(角川文庫)という本を読んで、この辞書が森田先生たったお一人で作られた辞書だということを知り、自分の長年の思い違いに頭をどつかれたような衝撃を受けた。

 

 そんなふうに私の記憶に残っている先生は、ずっと30代半ばのままだ。「もうすぐ」と「まもなく」、「〜ぎみ」と「〜がち」、「もってこい」と「うってつけ」は何が違うのか。「秋も深まりました」の「も」とは何か。

 

 帰りのバスの中で私が持っていた公務員試験問題集にあった「13日の金曜日が1年でもっとも多くなる年の1月1日は何曜日か。ただし閏年は考えない」という問題に、先生は「それ、めっちゃええ問題やで。いっしょに考えよう!」と言いだして、この問題にどこから手をつければいいかを2人で話し合った。今ならAIチャットがすぐにでも答えを出してくれそうな問題だけれど、結局答えはわからなかった。

 そういう疑問や問題を考えているときの先生は、いつも目をキラキラさせていて、そのたびに私は、「この人はすごい」と思った。24時間、こんなに日本語のことばかりを考えている人は、他にいなかった。

 

 堀川先生といえば旅行のことを思い浮かべる人が多いと思う。先生は国内・海外の旅行を取り扱う業務の正式な資格を持っているということで、「それならみんなでどこかに行きましょうよ」みたいな話の流れになり、それが堀川ツアー第1回の北海道旅行だった。

 これは先生の訃報を受け取ったあとに知ったことだが、堀川ツアーはその後も続き、先生は台湾、韓国、タイ、ミャンマー、マレーシア、カンボジア、ラオス、フィリピン、インドネシア、ブータン、ハンガリー、ブルガリア、ベナンなど卒業生たちが日本語教育に携わっている国々に、若い学生たちを連れて行っていたようだった。やっぱりすごい。

 

 大学3年の終わりに日本語教育学の別の先生の紹介で、ドイツの大学で二週間の日本語教育研修に私が参加できることが決まり、ドイツ行きの飛行機チケットはやはり堀川先生にお願いすることになった。

 パスポートのコピーがいるということだったので、廊下で先生とすれ違ったときに私のパスポートのコピーを「お願いします」と手渡して、先生と別れた直後、後ろから「星野さん!」と大声で引き止められた。何か間違いでもあったのかと思い振り向くと、先生がすごいスピードで近寄ってきて一言、「僕と誕生日一緒や!」

 以来、めぐってくる自分の誕生日のいくつかには、あの人も今日が誕生日なのだ、と思い出すことがあった。これからも、自分の誕生日が堀川先生を思い出す日になると思う。

 

 堀川先生と最後にお会いしたのは、たぶん卒論試問の日だったと思う。

 私の卒論テーマは、堀川先生から提案されたものをそのまま素直に受け入れた。試問では「星野さんの考えはわかるけど、ツメが甘い」というようなことを言われた気がする。

 そのときの私は、アメリカで1年間、挫折ばかりの日本語教師アシスタント生活を終えて帰国したところで、もう日本語教師には向いていないとはっきりわかっていた。就職氷河期まっただ中にもかかわらず、ろくな就職活動もしていなかったので、卒業後の進路もまったく決まっていなかった。

 なのに今日と同じ明日がずっと続くような気がしていて、その試問の日も堀川先生にはまたすぐに会えそうな気がしたので、いつもと変わらない簡単な挨拶をしたあと、研究室のドアを閉めた。

 私の卒論についた評価はAだった。

 

 あれからほぼ25年が過ぎて、私はフランスの地方都市で日本語を教えているけれど、一般的なイメージの日本語教師とは、ほど遠い仕事ぶりだ。

 どこかの学校や組織で教えているわけではないし、特にICTに通じているとか、何か授業に役立つスキルがあるわけでもない。ただ「日本語を勉強したい」という人に細々と教えているだけ。

 中級ぐらいのレッスンになると、例文をいくつか並べて似たような言葉の違いを説明することも、たまにある。そして、そういうときにも先生の顔が思い浮かぶ。

 

 「もってこい」と「うってつけ」、「秋も深まりました」の「も」、「13日の金曜日が一番多い年」

 

 私は教室の椅子に座って先生の講義をただ静かに受けていただけだ。でも若いときに「あれやこれやと考えることは、こんなにも楽しい」を目の前で見せてくれた大人に出会えたことは、そのあとの私に何かしらの影響を与えていると思う。

 そして、堀川智也先生に多大な影響を受けたのは、どうやら私一人ではないということを、これまた風の便りで知って、私はもう「すごい」としか言えない。

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