
羊の声
ここは、「(いつかは)柵を飛び越えたいと思っている」「何か発信したいけれどまだ自信がない」「伝えたいことがあるけれどまだはっきりしない」…みなさんのための連載です。自分の「声」に気づき、「声」を出すきっかけとしてもらえるように、みなさんの「声」を連載していきます。[→原稿募集中]
➀「トガル」の意味を考えて
私の専門は現代日本語(意味論)だ。しかし,同僚から「『トガル』って,どういうことだと思う?」と質問されるまで,この意味を考えたことはなかった。「丸くない」が重要な要素,関連語は「角張る」「出っ張る」,意味記述は「ものの形,ひとの性質や行為が鋭いようす,突出しているさま」だろうか…。鋭い「凸(とつ)」が「突(トガリ)」として知覚されるのか,どのようなことが「凸(とつ)」として捉えられるのか。全ての人が多種多様な「凹凸(おうとつ)」を備えているのではないか。「トガル」の意味を考えながら,私のなかにある「平らなこと・丸いことは良いことだ」という意識を自覚した。私に限らず,社会的にも人には「平面」や「丸み」が望まれるものなのかもしれない(例えば,「角が取れる」「丸くなる」「フラットな考え方」といった表現は肯定的評価を表すことが多い)。このような社会で,自分の凸(とつ)を探し,削り,尖らせながら,どう表出するのか(しないのか)…,「トガル」というのは,なかなか面白くて難しいテーマだなと感じている。

そもそも「トガル」とは何だろうか。現象なのか、行為なのか、概念なのか、思想なのか。たとえば鉛筆の先はトガっている。しかしはじめからトガっているわけではない。「ケズル」ことが必要だ。「トガル」ために「ケズル」ことが必要ならヒトは何をケズればいいのだろう。一方、バラのトゲなどははじめからトガっている。うっかりしていると「ササル」。ケズったほうが安全だろうか。危ない「トガリ」もあるのだろうか。どんな「トガリ」ならばよくて、なぜ「トガル」のか。これを考え続けることが「トガル」ということなのかもしれない。
②公認日本語教師は本当に必要か
8月20日に文化庁の「日本語教師の資格に関する調査研究協力者会議」による報告書『日本語教育の推進のための仕組みについて(報告)』が公開された。日本語教師の資格制度の創設(公認日本語教師の国家資格化)に向けての長い議論の末に到達した今後の法制化の叩き台となる資料だ。しかし、ウェブ上ではこの報告書に対して国民への意見募集を経て取りまとめられた前回の報告書『日本語教師の資格の在り方について(報告)』から内容が大幅に変更されており、現職の日本語教師を中心に落胆・困惑の声が上がっている。その理由として特に現行の有資格者要件を満たしている人材に関しては経過措置で公認日本語教師に移行することが望ましいという話が消えたばかりか原則改めて筆記試験及び教育実習を課すという結論づけや期待されていた公認日本語教師の資格取得による待遇保証に関する記述がない点などが挙げられている。これは現職者からしたらこれまでのキャリアを全否定されているのと同義と言っても過言ではなく、業務独占でもなければ待遇向上につながるわけでもないのに資格を取得し直すことの利点が見当たらない。また、他分野では資格制度創設にあたり学会や業界団体が中心となって現場の声を拾い集め、意見を送り、調整をする姿があるようだが、現状の日本語教育業界には表立ってはそうした動きが見られない。現場を否定し、分断を生み、当事者から歓迎されない公認日本語教師は本当に必要なのか。かくいう私も国家資格でなければならない理由が分からなくなっている。覆ることはないかもしれないが、公認日本語教師について引き続き考え、巻き込み、声を上げていきたい。

15年以上前「日本語教師になりたい」という大学生の私に,先生は「お勧めできない」というきっぱりとした一言と,厳しい現実の説明をしてくれました。それでも日本語教師を選択した私も学生から同じ相談をされたら,現在,あの先生と同じような伝え方(「奨学金が返しにくい」など)をしてしまう…そんなとき,私はこの業界で何をしてきたのだろうか,と虚しさのようなものを感じます。それでも,私の学生がこれから日本語教師になり,同じような場面になったとき,違う回答ができるようになっていたら嬉しいです。
③社会を変えるために
大学院生である私は,地域日本語教育に関する活動を行っている。地域日本語教育では,この20年あまり様々な研究や実践の蓄積がなされている。先輩から「地域日本語教育の研究はもうし尽されている」と言われたほどだ。しかし,実社会に目を向けてみると,20年の変化はそれほど大きくないように思える。行政は未だに地域住民に対する日本語支援にそれほど力を入れていない,もしくは取り組みを始めたという段階であることが多く,社会を変革する大変さを感じている。先日,某県の取り組みである日本語教室でコーディネーターをした際に,とある団体と企業の方が見学に来られた。その中の一人は活動中に爆睡しており,他の方も活動にそれほど興味がない様子だった。名刺渡しには余念のない彼ら彼女らに興味を持ってもらうにはどうすればいいのかを考え始めたとき,同じ方向を向いていない人と関わることが面倒くさいと思った。同じ方向を向いている人と共に活動するほうが気分がいいからだ。しかしそれと同時に私は,このような態度が社会の変革を妨げるということも理解している。内輪で盛り上がるだけでは十分でない。頭ではわかっている。次は心を動かしたい。
(ペンネーム:忘れっぽい)

変わることは難しい。変えることはもっと難しい。しかし、時間には限りがある。社会が変わる/社会を変えるには個人が変わる/個人を変えるしかない。私の変えたいと思う信念の先には、誰かの守りたいと思う信念が待っているかもしれない。それでも「よりよい」のため、時に立ち止まりながら、信念の尖らせ合いと削り合いを重ね合うことが必要なのだろう。「地域日本語教育」が「日本語教育」になり、「日本語教育」が「言語教育」になり、「言語教育」が「教育」に溶けていく頃、きっと「社会」という言葉も今とは違う意味を持っている。
④過去と現在の矛盾
いくつかの自治体で日本語ボランティアの養成講座に関わるようになりました。日本語教育を専門とする私にとって、日本語教育に興味をもつ人が増えるのは嬉しいことです。そんな感じでふわふわ過ごしていたら、大学院時代の同期がこんなことを言っていました。「ボランティアを養成するなんて何をやってるんだろう・・」実は、この同期も私とは別の自治体でボランティア養成講座の講師を引き受けていました。「日本語教師が職業としてしっかり確立しなきゃ意味がないのに。これ以上ボランティアばっかり増やしたらダメなのに・・」と。そうでした、思い出しました。もう何年も前になりますが、私たちは大学院時代、どんなに日本語教育に情熱をもっていてもしっかりお給料をもらえないことの理不尽さをみんなで語っていました。しかし、いつの間にか私たちは、その理不尽さを助長することに加担していたのです。日本語ボランティアをやってみたいという人たちには、何の罪もありませんし、頭が下がる思いです。では、一体どうしたらいいのでしょう。まだ何の答えももっていませんが、ふわふわしていた自分を律しなければなりません。そして、次にその同期に会ったら、自分の意見を言えるようになりたいと思いました。
(ペンネーム:たぬき)

思い出しました。私も大学時代、同じように思っていました。そして、今は、たぬきさんと同じように自治体のボランティア養成講座に関わっています。とても楽しい仕事ですが、無報酬だったらやらないと思います。私にとって日本語教育は仕事ですが、「(仕事ではなく)ボランティアだから関わりたい」「だれかの人生の(私の経験と重なる)『この部分』をサポートしたい」とか、世の中には一人ひとりの人生のなかに本当にたくさんのかたちの日本語教育(?)が存在しているんですよね。たぬきさんの文章を読むまで、たくさんのかたちを認めていくのがいいと感じていましたが、「理不尽さを助長することに加担してしまう」のか、ちょっと私も考えたいと思います。
⑤【ことば】を届ける人間として
「あなたが変わりたくて変わっても、変わりたくなくて変わらなくても、私はあなたを応援しているよ。」―これは、私が今まで忘れたことがない、そしておそらく、今後忘れることがないであろう【ことば】である。正確な記憶は定かではないが、中学を卒業する間近、もしくは卒業してすぐの頃、中学校時代にお世話になったT先生からいただいた【ことば】だ。T先生は、私が「教師」、特に学校の先生というものを目指すきっかけとなった先生であり,当時15歳の私は「将来、あのような先生と一緒にお仕事ができれば」と思っていた。冒頭の【ことば】は、当時私が自身の性格や進路に悩み、「今の自分を変えるために何かした方が良いと思うが、何をしたらいいか分からない。」と電話で相談したときにいただいた【ことば】である。あれから十数年、これまで、多くの先生からさまざまな【ことば】をいただいた、と思う。大学時代の先生方、大学院の先生方、学会や研究会でお世話になった先生方、職場でお世話になった先生方。しかしそれでも、十数年以上前にいただいたT先生からいただいた【ことば】は未だに印象に残っている。さて、私が今関わっている日本語教育、そして日本語教師(学習支援者)は、「日本語」を教え学習者(対象者)の言語活動、言語能力を支援することが主な使命である。そのなかで、さまざまな「日本語」を学習者に示すことになる。その「日本語」は,目の前の学習者にとってどれだけ【ことば】となっているだろうか。また、そこで学習者が身につけているのは、「日本語」だろうか、それとも、学習者にとっての【ことば】だろうか。『「日本語」と【ことば】の違いは?』とツッコまれると、「うっ…」となってしまうのだが、最近はそんなことを考えている。
※なお、上記の内容はT先生に確認いただき掲載の許可をいただいている。
(ペンネーム:ナサケモノ)

【ことば】は時として私たちに重く強くのしかかる。そして何者であるかを突き付ける。乾ききったスポンジが水を吸うように体中にしみわたる日もあれば、マグマのごとく噴き出しては降り注ぐことを止めない日もやってくる。同じ【ことば】でも同じ意味を持たず、違う【ことば】でも意味が伝わる場合さえある。毒か薬か、はたまた水か。どうしたって分からない。見分けなどつかないのだ。飲み込むその瞬間には今の私がそこにいるだけ。それを繰り返して、新しい味を覚えてはまた試してみる。そんな毎日のような気がする。
⑥水は低きに流れ、私は易きに流れる
画面の向こうから学生が質問や意見を匿名で書き込めるオンラインツールの活用を始めて久しい。今では書き込みを促す質問選び、学生が書き込むタイミングの見極め、書き込みを促す声かけも手慣れたもの。より多くの学生の質問や意見が見える化し、大満足。対面授業に戻った今、ふと気づくのは教室で学生が質問や意見を述べず牽制し合う時間が以前より長いこと。全体共有の前にペアで話し合う時間を設けても(ペアでは盛り上がる)、発言大歓迎の雰囲気づくりを心がけても何も言わないままのことも。この対面での問題もオンライン書き込みツールを使い一瞬にして解決。この時、何か大事なことが目の前で決められていてもせっせとスマホに意見を打ち込んでいる学生の未来がチラッと見えた。それで間に合うのか、それで伝わるのか。いや、こんなことを問う資格は自分にはない。そんな学生の未来を形作っている張本人だから。水は低きに流れ、人は易きに流れる。学びの場では、できないことや苦手なことにチャレンジしてできるようになってもらうことこそ大事では?それが学生や社会にとって大切だと思うことなら尚更。きっと大勢の前で発言をするには勇気がいる、考える時間が必要、練習が欠かせない。もう一度、流れに逆らってみよう。もちろん、先頭を切って流れに逆らうのは私
自身。
(ペンネーム:おかげさま)

おかげさまさんの投稿を読み、共感しています。オンラインと対面の境界が薄れている感覚もあります。私が投稿を読んで響いたのが「できないことや苦手なことをできるようにする」ことが大事という部分です。一方で、「できないことや苦手なことを知ること」「苦手から、自分がつぶれないように避けられるようにする」ことも、学びの場に必要なことだな…と感じました。相反するものが求められてよい場…そう考えると、学びの場をつくる人の役割がより際立ってくるような気がしました。
⑦やさ日じわじわ拡散効果
非常勤先の大学で、日本語教育とは異なる他分野の学生さん達と、先日、やさしい日本語を使った活動をした。
そこで聞かれた第一声は、 「やさしい日本語ってなに?」だった。
しかし活動を通して、私たちが毎日「あたりまえ」に使っている日本語が、実は「あたりまえではない」ということや、漢字弱者・情報弱者になってしまう「誰か」がいるということへの気づきから、(これまでいかに自分本位の日本語を使っていたのかわかった)等の声があちこちから出てくるようになった。もしかしたら、彼・彼女たちにとっては、やさしい日本語という考え方自体が新鮮で、興味深く、印象に残ったのかもしれない。
その後、何人かが、自ら進んで周囲にやさしい日本語を発信し、それがどこでどう使われたのかを報告してくれるようになった。例えばこのような流れだ。
①学生➡学生の家族➡家族の職場➡そこで働く技能実習生
②学生➡学生の友人➡友人のバイト先(介護施設)➡高齢者
このように、やさしい日本語は、彼・彼女たちの自発的な行動により、教室内から教室外へと予想外にじわじわと拡がっていった。何気なく周囲に伝えたやさしい日本語が、その先々で誰かの役に立ち、実際に喜んでくれる人がいる。その「存在が見えた」ことで、やさしい日本語を『自分事』として捉えることができたのではないだろうか。
私たちは日頃、日本語教育の関係者に囲まれた状態でいることが多い。私はこの経験を通じ、意識的に他分野の人たちと関わりを持ち、こうしてやさしい日本語を伝えていくことは、とても重要なことだと感じた。今後も、今回のような、やさ日じわじわ拡散効果が多方面で出てくることを期待し、私ができることをしっかりと取り組んでいきたいと思った。
(ペンネーム:フグタ)

「やさしい日本語ってなに?」という純粋な問いかけが尊い。「当たり前」であるがゆえに自らのことばの力に無自覚であったことは誰にも身に覚えがあるだろう。だが、それが「当たり前」ではなかったのだと自覚し、自らの持つことばの力を覚醒させたとき、非常に強い言霊となって伝播していくことがある。それゆえ、ことばは人間を形成し、変容させる。その結果が思想の更新であり、社会の変革だ。わたしたちはことばの教育で革命を起こすことができる。うまく成功させてやろうじゃないか。
⑧
「咩話?」
香港に居住している私が、羊の声を書こうとした時に想い浮かんだ言葉です。これは「なんて?」という意味の広東語です。「咩」という字は、いわゆる簡体字・繁体字では使用されない字で、広東語を表記するための漢字であり、「香港字」とも呼ばれます。
2019年のデモでは話題になった香港も、その後のコロナ禍やウクライナにおける軍事衝突など世界の大ニュースの影に埋れていき、日本のメディアで取り上げられる回数は減ったと聞きます。そんなここ数年、政治的な締め付けが強まる側ら、香港のポップカルチャーが盛り上がりを見せています。デモ制圧後の香港で増えたといえばまずは「移民」ですが、それに加えて、「カントポップ」と呼ばれる広東語ポップソング、そして「香港字」をふんだんに使った広東語表記の小説が増えているように思われます。特に、「カントポップ」で有名なのが、香港のオーディション番組から生まれたMirrorというグループで、街を歩けば彼らの広告を見ない日はありません。この人気を利用して、昨年末にあるコメディアンらが発表した「Black Mirror」という曲があります。ラップ調で「今君がおっかけしてるやつら、何て?(你而家追咩話?)」「あのグループの名前、何て?(佢哋𠴱隊叫咩話?)」と小気味よく続けていきますが、この「咩話Me1waa6」は発音が「Mirror」と掛けられていて、現在の香港に住む多くの人ならすぐ連想することができます。
こうしたポップカルチャーが、正面から意見を言いづらくなった民衆にとって、その想いを発信・共感できる場所になっている向きがあるかもしれない、というのは大事な点だと思います。より詳しく知りたい方は、広東語表記については東京大学の吉川雅之先生の著作物(https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200901010742526368)、カントポップについては小栗宏太さんのブログ(https://jig-jig.com/serialization/hk_catproject/hk_cat_08/)がおすすめです。ではまた、下次見!
(ペンネーム:鏡)

沈黙。何が正しいかではなく、正しさを象った冷たい空気が口を塞ぐ。途端に何も言えなくなる。この声を飲み込んで、この掌の熱を闇夜に解いて、わたしのことばを取り上げられても、自分が何者か分からなくなっても、ここから連れ出してくれるのは、いつの時代も、歌であり、音楽であり、ポップカルチャーなのかもしれない。社会は――社会に散り散りに溶け込んだあの熱は、何を想うのか。今夜もどこかで聞こえる「声」に耳を澄ませて。
⑨
私は人前で話すのがものすごく苦手です。教育や研究に関わっているという職業柄、人前で話さなければならない機会は嫌でもやってくるのですが、何年経っても慣れません。変な汗をかいて、自分が何を話したのか覚えていないことも多々あります。思い返せば、私が小学校6年生の頃に遡ります。とあるアニメのキャラクターに声がそっくりだという理由で、からかわれるようになりました。授業中、教科書を音読するように指名されるのは地獄のようでした。その頃から人前で話すことに強い苦手意識を抱くようになりました。大学生になっても講義はなるべく後ろの席に座り、私が発言しなければならない時に、誰にも顔を見られないように心がけていました。社会人になった今でも学会発表の前日は、内容よりも人前で話すことそのものにストレスを感じて具合が悪くなります。そして、発表が終わったあとは劣等感と絶望感に襲われます。最終的には、「もうどうでもいいや」と思考を停止する・・という情けない状況です。自分の苦手なことに、皆さんはどんなふうに向き合っているのでしょうか。アドバイスをもらえると嬉しいです。

わたしもそうかもしれない。ほとんど全自動の心のミュートボタンを入れっぱなしにして、見えない何かと格闘する毎日。苦手なことは今もずっと苦手だ。それどころか「苦手ちゃん」は年々増えていく。避けられる苦手はまだいい。向こうからやってくる苦手はどうにもならない。祈るか逃げるか戦うか。どれを選んでもだいたい負ける。負けると分かっているから余計にまた苦手になる。そんな負けの込んだループを繰り返していると、たまに当たりを引く。今はまだ小さい当たりばかりだけど、そのときは少しだけうれしい。苦手ちゃんの攻略は買ってもめったに当たらないけど、買わなきゃ決して当たることもない宝くじだと思うようにして3億円を待ってみている。もしかしたらみんな、そんなもんなのかもしれない。だから「がんばってるよね」をあなたに。どちらが先に3億円、引けるかしら。
⑩ことばを使って社会参加すること
昨秋,1年生の時に私の日本語クラスだった学生が,学内新聞部の記者として私にインタビューをしてくれました。記事は本学の先生を紹介するものです。その学生は,1年生の時はコロナのために入国できずオンライン授業を受け,2年生になって入国しています。クラスでは口数が多い方ではなく,自分から明るく積極的に話すようなタイプではありませんでした。でも,オンキャンパスになってからは,そうした自分を変えるために入部したそうです。インタビューしてストーリーを引き出し,レコーディングしたものを解釈,文章化して記事にする。なんとことばを駆使する作業でしょう。それも外国語でです。自分だったらできるかどうか。。。うれしかったのは,記事に私を選んでくれたこと,日本語が目に見えて上手になっていたこと,なによりも,その日本語を懸命に使って大学新聞を作り上げようとしていることでした。「ことばを使って社会に参加すること」の姿と大変さを教えてくれて,ありがとう。
(淺津嘉之)

私たちは知らない。私たちが醸成したことばの行き先を――。そして、すぐに忘れてしまう。たくさん練習したはずのフレーズも、あれほど回想したセリフも。あれは何度目の秋だっただろうか。一度この手を離れたら、何が届いて、何が届かなかったのか、確かめるすべはもうないけれど、それでも私たちは思い出す。液晶の向こう、教卓の向こう、そのたった一瞬のために、紡いだ、編んだ、めくった、かれらとの毎日を。その光景だけはいつも鮮明に戻ってくる。そんな教室だった。
⑪「あなたの感想」
教室のなかでの出来事である。「それってあなたの感想ですよね」笑いながら小学生たちが言い合っている。ここ数年、メディアでみることの増えた、ひ●ゆきさんのキャッチフレーズを真似しているのだ。はっきり言わせていただくと、わたしはこのフレーズに嫌悪感を抱いている。なぜか。このフレーズには暴力性があるからである。「あなたの感想は、『あなた』のみの感想でしかなく客観性をもっていないから、話さないでください」という意味にこのフレーズは変換できるとわたしは考える。もちろん世の中にはいろいろな意見があり、自分と相容れない考えをもつひともいる。しかし、「あなたの感想」があってこその社会である。もし社会が「あなたの感想」を一切聞かず、一様の考え方になってしまったら、それはおそろしいことではないだろうか。だからこそ、小学生が何の気なしに、ある大人が言っていた発言を模倣して話している姿に危機感すら抱いた。
話は転じて、この前ある研究会に参加した時に、「もう理論は非常にいいものが提示されているように思うんですけどね」と発言されていた先生がいた。別の日には、院進を考えていた学部生の方が「自分が考えて見つけたと思ったことは大抵だれかによってすでに言われている」と吐露していた。理論がすでに非常にいいものであるならば、その理論を咀嚼し自分の実践に落とし込んでいくことが足りないのではないか。「それってあなたの感想ですよね」と切り捨てることは簡単で葛藤することもないだろう。しかし相容れない相手とも対話を重ねていくことこそいまの社会にとって必要だ。言うは易く行うは難し。根気強く「あなたの感想が聞きたいのだ」と、子どもたちに働きかけていきたいと思う。

「「あなたの感想」があってこその社会である」。この一文に強く共感する一方で、「沈黙したい」「何も言わずにやり過ごしたい」と、頻繁に願ってしまうわたし自身の姿が浮かび上がりました。個人の意見の大切さも知っているつもりだったのに。
私の人生にも、あなたのように、根気強く「わたしの感想」を聞きたがってくれた人がいます。それなのに、自信をもってわたしのことばが言えない、いうことに罪悪感を覚えることもある…これは一体何なのでしょうか。あなたのように、「あなたの感想が聞きたい」と、わたしも他者に働きかけていきたい。と同時に、ことばにするひとが育つためには何が必要なのか考えたい、ということもご投稿を読んで感じました。