Walking the fringe
写真・文 高橋 聡

 毎日2時間ほど散歩するようになって3年になる。この散歩自体に理由も目的もない。8年ほど世界を旅したが、同じようにこの旅にも理由も目的もない。30年近くやってきた日本語教師も同じである。一時期、こうしたものに理由や目的を探そうとしたが、ことばを集めてもどこか納得するものにならない。62年生きてきたことにも、なおさら理由も目的も見つからない。しかし、散歩なり、旅なり、日本語教師なりをして、一つ一つ進めてきたそれぞれの「生」が重なって、なにごとかの意味に見えることはある。

 

 山鳩

 

 散歩の途中、雑木林の中でどぅどぅぽっぽーと雉鳩がなく。心の底が小さく灯る。

雉鳩の声を聞いて、心が明るくなるのは、カトマンドゥ郊外のシュワイヤンブ寺院の麓にひと月ほど滞在してからである。それまで雉鳩の声はどことなく不吉な響きを帯びていた。子どもの頃、父と釣りに行った渓谷の、まだ早い時間に陽は届かなくなり、早々に夕闇が降りようとする刹那に、どぅどぅぽっぽー、どぅどぅぽっぽーと雉鳩がなく。父の黒いアノラックが渓谷に消えてしまうようで怖かった。雉鳩の声に不吉な響きを聞き取るのはそれ以来だったように思う。シュワイヤンブ寺院には川原鳩も雉鳩も鳩が大挙して群れている。そこに猿の大群が同居し、人々の祈り、露天商、物乞い、マニ車、鐘の音、風の幡鳴りも加わり、その日常の15メートル高所からBuddha eyeが微笑んでいる。早朝から始まって、夕暮れまで大勢のどぅどぅぽっぽーは続き、それはいずれ活気を帯びて、陽気なものに変わっていく。アムステルダムでぼくの心は壊れてしまい、扉から心が滲み出して、他者が見たい象りにぼくの心が映し出され、反対に他者の心は扉がしっかりと締まっていて、ぼくからは何も窺いしれないという状態が続く。彼らはそれをことばで伝えるように言うのだった。それにすっかり疲れてしまい、ぼくはネパールへとやって来たのだが、そこで出会った、ろくに互いの言語を知らない人々の暮らしと鳩たち、カトマンドゥ市街を一日中歩き回る日課がぼくの心を修復したのだった。ぼくは日本語教師であるけれども、ことばというものを過信してはいない。心にある襞はことばより複雑であるからだ。ぼくたちひとりひとりが唯一無二であるように、個々の心の襞はさらに固有なものである。ことばは生きる活動を伴いながら、何がしかの理解を援けるものだ。他者とのコミュニケーションは生きる活動の一つだが、コミュニケーションのためにことばがあるのではない。何日もカトマンドゥの、石畳やカリフラワーの畦道を、寺院の間を、バグマティ川の河原や泥と塵の小路を、人や牛や山羊やオートリキシャーを避けながら、ひたすら歩いても、ぼくの心にある襞はことばにならなかった。くたびれて、カトマンドゥの市街を再び横切り、シュワイヤンプ寺院の参道の角にチャイ屋の灯りが灯る。その夕べ、朝と同じようにT氏が微笑み、奥では彼の妻が二人の息子たちに話している声、何事か息子たちが応え、炊き上がった米の匂いとお香が漂い、粗末な机に飾られた花が新しく、その横にT氏が濃い、熱いチャイを置く。チャイが香り、内側を見詰めていた視線がふっとぼくを通り抜け、「いま、ここ」にある一杯のチャイに気づく。一杯のチャイは、今日一日ぼくが歩いた一歩一歩が生姜の香りになり、T氏のぼくへの想いが茶葉と新鮮なミルクになり、T氏の家族が創り上げた平安が心の襞に届く。ぼくはその時、カトマンドゥで探していたものを理解する。この一杯のチャイの甘さ。ことばは外へ向かうのではなく、内へ向かう。深いところへ深いところへ、その底に外への扉がある。翌朝は白い霧が降りてきて、その中で山鳩たちがなく。どぅどぅぽっぽー、どぅどぅぽっぽー。ぼくはもう一度カトマンドゥを歩き直す。今、ここの、人々の声が、山々が、音が、匂いが、色が、ぼくの心の襞に入ってくる。

 その後の人生で、ぼくは日本語教師になり、教師はおいしいチャイ屋の主人にすぎないことに気がつく。人がもともと持っていることばのチカラが彼らの生に重なる場をチャイを淹れながら開くのだ。

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 白いカラス

 散歩途中でよく見かける、杖をついた老婆が尋ねる。「お仕事は何をなさっているの」ぼくは自分を教師という職業としてIdentifyしたことがないし、教師にだけはなるまいと思っていた。

 父は公立高校の国語教諭だった。6人姉妹のたった一人の男子だったが、家業は長姉に譲り、他県へ来て教員になる。父が30、40代だっただろう、ぼくの子ども時代には教え子たちがよく家に来ては、釣りをし、キャッチボールをし、飯を食い、帰っていった。父はそれを楽しんでいたように思う。厳しい父だったが、学生たちが来るとよく笑った。10数年後、その中の一人がぼくの姉の旦那になるのだが、それはまた別な物語、ぼくの物語ではなく、彼らの物語である。その頃までぼくは父が好きだったのだと思う。小さい頃は気がつくと父の膝にいた。釣りもキャッチボールも普段から父とぼくがよくやっていたものに学生たちが加わったようなものだった。父は帰宅するときゅっきゅっと帯の音をさせて、背広から着物に着替えた。夕食後の7時のニュースが終わると毎晩2階の書斎に上がっていき、授業の準備やら、採点やらに2、3時間ほど時間を費やした。ぼくが覗くと、父はガリ版の原紙を鉄筆でカリカリ書き込んでいたり、マニキュアの刷毛のようなもので修正したりしているのだった。この修正液の海老茶色の色彩と、宿直する父に夕飯を届けた折に嗅いだ、人のいない職員室の、中華そばと煙草とインクと藁半紙の匂いが父の印象である。

 学生たちが遊びに来なくなったのは、父が50代に近づいたあたり、ぼくが高校受験を控えた頃だったと思う。その頃から、担任や担当する授業が少なくなって、直接学生たちと接することも減り、学校運営に係る仕事や教育委員会への出向などが増えたのである。そして書斎での仕事は教頭試験だの校長試験だのの準備に充てられるようになった。どのような経緯だったのかはわからないが、彼自身がどこかで選択したのだろうと思う。この県の教職員には、県内の出身高校や県内の国立大学、筑波大、学芸大といった学閥があり、それ以外の国立大学卒で県内出身者でもない父にとって、管理職への転向は容易なものではなかったようである。そんなところへ、父のいる高校にぼくが入学したのである。

 小豆高校はいわゆる東大合格者数で洋梨高校や昆布高校と競う、当時は県内での名門男子校だった。旧制中学が前身で、明治時代に建てられた洋風の校舎、その伝統やバンカラな気風を誇りにしており、ぼくの時代でも下駄ばき、腰に手拭いという輩がまだ生き延びていた。新入生は中庭に集められ、周りの校舎から降ってくる先輩たちの水爆弾の中で、いくつもある応援歌を誦じさせられるのが伝統行事だった。そんな男子高校にぼくは化粧をして入学したのだ。特に美しくなりたかったわけではない。自分の顔を人前に晒せなかったのである。造形がというより、ぼくの顔貌がぼくのものではないような気がしたからだ。その上、ぼくは中学時代に熱心に勉強した記憶もなく、入学はできたものの、この地域の優等生が集う小豆高校ではそれでは通用せず、最初の定期試験でぼくはほとんど下から数えた方が早い成績を取ったのだった。父の落胆は凄まじいものだった。

 彼は、自分の息子も教育できないものが教育者として続けていくことはできないと言うのだった。どこで手に入れたものか、マッチ箱から青い結晶を取り出して「もう教師として生きていくことはできない、一緒に飲もう」と言い出したこともあった。この教育が成績だけのものだったなら、ぼくとしても何とかできただろうが、化粧を含む人間の教育となると、ぼくは無力だった。ぼく自身ぼくが嫌いだったからだ。「どこで失敗したのか」父は言った。こうしてぼくは教育の失敗者になったのである。小豆高生らしからぬ学生がいること、それが高橋先生の息子であること、そういったことが教師や学生の間に知れるのは早かった。父の希望だったのだろう、翌年父は県庁にある教育委員会に単身で赴任し、お互いどうにか息は継げるようになる。それ以降、父が癌で亡くなる三ヶ月前まで、ぼくは父と暮らしたことがない。

 ぼくはと言えば、徐々に学校へ行かなくなり、家で本ばかりを読んで暮らすようになるのだが、それがぼくの最初の世界を創ってくれたように思う。『トニオ・クレーゲル』『デミアン』『地下室の手記』『異邦人』そして太宰がぼくのよき理解者だった。ホフマン、賢治、エンデ、グウィン、カフカは内的な世界の描き方とこのまま真っ直ぐに進む勇気を提示してくれたし、ヴォネガット、公房と大江はぼくの心を明るくした。『限りなく透明に近いブルー』は希望までも垣間見せてくれた。西脇と賢治と心平、イェーツの詩が救ってくれたこともある。救いと言えば、暁の空とヨシキリの声に生きる喜びが溢れた朝を思い出す。そしてStonesやDoorsにEagles、Pink Floydにも救われた。ぼくの最初の世界は、YやKによってもたらされたものも多かった。ぼくが本を読んでいるとYが高校から帰ってくる。一緒に遅い昼ごはんを食べ、ぼくは読んだ本のことを、彼女は学校でのできごとを話す。それからぼくたちは愛し合い、母たちが帰ってくる前に彼女を家まで送っていく。時々は同じ高校の友人Kが訪ねてきて話をする。Kとは未だにそうであるが、YともKともぼくたちは実にたくさんのことを話し合ったものだ。互いへの貪るような関心とそれに促される発見、何よりもありのままに話せる自由、そういったものがぼくたちの話を支えていた。ぼくの最初の世界を創ってくれたもう一つは旅だった。夏休みや春休みになると、ぼくは旅をした。旅の途上、ぼくは外側の顔貌から解き放たれ、化粧をせずに歩くことができた。高2の夏、月山に登り、日の出を見て飛島に渡り、帰りに日本海側から仙台に出て友人のJを訪ねた。この一週間の初めての旅は、ぼくのその後の旅の原型になる。

 月山の旅から6年後、ぼくは大学を辞めて印度へ旅に出る。それからアジア、ヨーロッパ、アフリカを歩き、経済はアムステルダムでさまざまな職をして支えた。アムステルダムで母からの電話を受け取ったのは、初めのインドの旅から8年後のことである。父が癌で後三ヶ月もつかどうかとのことだった。ぼくは帰国する。

 父は抗がん剤などで朦朧としていることが多くなった。実家は窪地に面した縁にあり、入院している病院も同じ縁に建っていた。以前は、家の南側は5メートルほど下がった田んぼで、田んぼを渡っていくと窪地の底には小川が流れていた。小川の向こう側は10メートルほどの崖で、小川に沿ったその崖に雑木林が帯状に続いていた。窪地には雉や野兎が棲んでいたし、春から夏にかけて郭公やヨシキリが鳴いた。夏になると当たり前のように蛍がツーと光って家の網戸までやってきた。家からは田んぼとその向こうに雑木林が見渡せ、望遠鏡で鳥を観察するのが父とぼくの共通した時間の過ごし方でもあった。久しぶりに帰国してみると、小さかった病院は大きな総合病院になっており、近くにはモールまでできて、埋め立てられた田んぼは病院とモールの広大な駐車場になっていた。小川も埋め立てられ、代わりに人工の小川がチョロチョロ流れ、それに沿って「せせらぎ小道」とかいう遊歩道が設置されていた。雑木林は人工小川と遊歩道に沿って、毛が生えたように残されており、父の病室からはヒョロヒョロと樹木が見えた。以前その辺りは太く高い竹が密集して生えていて、オナガたちが水飲み場の縄張りを主張しており、カラスたちと闘いを繰り広げた場所だった。病室からは窓の端に実家を目にすることもできた。ぼくはでき得る限り、父と一緒にいようと決めていた。

 亡くなるまでの三ヶ月、ぼくは毎日父に旅の話をした。意外にも父はおもしろそうにぼくの話を聞いた。生き物好きの父は特にアフリカの話をおもしろがった。ぼくの足元で遊んでいたマウンテンゴリラの赤ん坊や汽車の窓を覗くキリンたち、アルコール中毒で女好きのチンパンジーについてはもちろんだが、父はそれ以上に人々に興味をもった。ザイール川で出会った漁師の主人について、その妻や子どもたちについて、彼らの暮らしていた小屋について、粗末な自分たちの食事を分けてくれた3匹の小魚について、翌日彼らが捕らえた水色のナマズについて、ぼくの話が父のアフリカになるのだった。父が熱心な聞き手であることが嬉しくて、ぼくは話し続けた。「お父さんの若い頃はそういうことはできなかったな」ぼくが中学の頃、父は県から派遣されてひと月ほど欧州の高校を視察する旅行をした。それが父の唯一の海外旅行だった。「いいな」父は言った。ぼくはカトマンドゥのT氏の一杯のチャイを思う。ぼくは、今、ここの、このために旅をしてきたような気がした。これが父の「おかえり」だった。ぼくは奥へ奥へと進み、すぽっと父の心の端にたどり着いたのかもしれなかった。本人に癌を告知し、生命維持をやめてから1週間で父は亡くなった。その最後の一週間のある日、ぼくが病室に入ると父は眠っていた。そして眠ったまま父は出席を取っていた。アイウエオ順なのだろう、一人ずつフルネームで学生の名前を呼び、呼んだ後で学生の顔を確かめるようにわずかに顎を上げた。そして次の学生の名を呼ぶ。何十年も前の、担任を持っていた頃のクラスなのだろう。ひとりひとりゆっくりと名前を呼ぶ。父の「教師」とはこういうものだったのかと初めてぼくは思う。

「聡、白いカラスがいたよ」父は言った。「ほら、あそこのオナガのいた竹のあたり」「あそこからこう飛んで、うちの方へ飛んでいった」彼は新種の発見に興奮すらしていた。その翌日の早朝、父は亡くなった。

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翡翠

 

 ぼくの散歩は、家から北に住宅街を下って行き、段丘の底の落合川に出る。落合川は湧水を源とした美しい水の小川である。落合川に沿って東へ2kmほど下るとこの小川は黒目川に流れ込む。落合川よりも幅の広い、やはり武蔵野台地からの湧水の、水の美しい川である。その合流地点(サンガム)から西へ黒目川を3kmほど上って、南に折れ、引き返す。全部で7km強の行程で、この散歩エリアには狸やさまざまな小鳥、水鳥、昆虫、植物が生息している。そこは彼らの土地である。ぼくは2時間ほど、毎日彼らの土地の旅をする。 

 冬は、渡りの鳥がやってきて彼らの川辺は殊更賑やかになる。カルガモはここで雛を育て、毎年家族が増えていく留鳥だが、彼らは大らかに渡りの鳥を受け入れる。ピューピューと陽気に鳴くヒドリガモは北方から来て、ここで冬を過ごす。雄雌番いの仲がいいカモである。彼らの群れにもコガモやオナガガモなど別の渡りのカモが数羽混ざっている。今年はハシビロガモの雌が一羽一緒にいる。ヘラのような嘴以外、ヒドリガモの雌に似ているので、ヒドリガモの雄がモーションをかけているが、その度に追い払われる。去年まで毎年来ていたクイナはいつもの芦原を刈られてしまい、別な場所でチラッと一度見たきりで、他に場所を移したのかもしれない。渡りではないが、モズやアオジ、ジョウビタキ、ツグミなど冬の間この辺に移動してくる小鳥も多い。鶯は、冬の間葦薮の根元でギュッギュッと地鳴きしながら、ひらひらと動き回っている。そろそろ春に向けて囀りの練習が始まる。初夏には郭公、燕、岩燕、画眉鳥(ガビチョウ)もやってきて南を運ぶ。そしてカルガモ、大鷺、小鷺、青鷺などのレギュラー陣たちがいる。カワセミもそうしたレギュラー陣の一員である。   

 カワセミは小さな丸い身体に大きな嘴と短い脚をつけた、どこかコケティッシュな様子をしている。鮮やかなターキッシュブルーの背中にオレンジ色のぽっこりしたお腹、いくつかの青で構成された頭部と翼、その羽毛は見る光によって色彩が変わる。川面を飛んでいく姿は青い弾丸のようで美しい。ぼくの散歩エリアには三羽のカワセミが棲んでいる。一羽は成熟した雌、二羽は若い雄と雌である。雌は成熟すると下嘴が赤く染まり、上下とも黒いのが雄である。彼らに出会う度にぼくはしばらく一緒に過ごす。カワセミは川に突き出た枝や橋桁に留まり、魚や海老を探す。獲物の動きに合わせて、頭と青い短い尾でリズムを刻みながら、タイミングが合うとダイブするのだが、まるで空間移動をしたかのように、もう獲物を咥えて元の場所にいる。時には獲物が大き過ぎて、慌てる様子が可笑しい。カワセミに限らず、虫や鳥たちの生活を見ていると、彼らがそうして生きている土地に同時にいられることがたまらなく嬉しくなる。そのカワセミたちがぼくと遊ぼうとしているのに気がついたのは、散歩の旅を始めて半年くらい過ぎた頃だったと思う。

 散歩をしていても、考えごとを引き摺っていたり、時間や目的を気にしていたりしていると、彼らの「今、ここ」の営みを見損なう。そういうときに限ってカワセミは、飛び込む水音やツィツィツィという耳の奥から聞こえてくるような細やかな声でぼくの足を止める。梢の上に他の鳥を見上げていると、その枝にパッと割り込んでくることもある。そういうことが重なるとやがて、カワセミがどこかでぼくの散歩を見ているような気がしてくる。たとえば、すぐそこの枝にカワセミが留まる。ぼくを見ている。するとひゅっと飛んで20mぐらい先に留まる。ぼくがそこまで行くと、またすっと先に行く。あるいは、ぼくの肩越しを青い弾丸が越えて行き、ああ行っちゃったなと思うとその先で待っている。そうやってしばらくついてくる。その距離が少しずつ伸び、川沿いのほとんどを一緒に歩くことがあると、カワセミとのつながりは確信にかわる。住宅街から川に出たばかりの辺りでサッと姿を見せて、それから全く姿を見せず、ぼくが落合川を下り、黒目川を上って、もうあと数メートルで川から離れるという所で、ツィツィツィと啼いて再び現れる。おそらくぼくに見つからないように、見つからないようにしてついて行く、隠れん坊のひとり遊びをしていたのだろう。彼らはぼくの散歩コースをよく知っている。最初は成熟した雌だけだったのが、若い二羽も同じことをするようになる。だからぼくは襟を正して彼らの土地を歩くのだが、彼らも忙しく、暇な時しか遊んではくれない。

 こうしてぼくは彼らの土地の旅をする。他者の土地を旅するとき、旅人は自分の思索も目論みも思い込みも捨てて、他者の営みの今、ここに向き合わされる。旅の最初は自分の置いてきたものや旅への目論み、かつての興味や生活・人生への思念などが蟠っているが、歩を進めるうちに旅がそうしたものを追い払ってしまう。旅が送り込んでくる、思いもしなかった「今、ここ」に否応なく向き合うことになる。そしてひとつの旅を終えた時に、捨て去っていた思念が蘇ってくるのだが、「今、ここ」に向き合った後では、それは全く違ったものとして生まれてくるのだ。この変遷が旅なのだと思う。旅は物理的な移動ではなく、移動する精神である。父の「教師」あるいは「教育」ということ、そうしたものは、ぼくの人生の旅が送り込んできた、ぼくが否応なく向き合わざるを得ないテーマだった。その旅の変遷の果てに、今のぼくの「ことばを扱う教師」というものが生まれている。そして今、入れ子人形のようにその中でさらにぼくは学生たちの一人一人の土地を旅している。彼らの営みに向き合うと、かつてのぼくはもう一度解体されて、旅を進めていくためには考えざるを得ない、せざるを得ない何ものかに出会う。この頃その何ものかは、「ことばにならない心の襞」に耳を澄ませよと言うのだった。言語教育が相互に他者(の土地)を旅し、その生(営み)に向き合うものであるなら、ことばだけではなく、身体、精神の活動の全てに関心すべきだと思うのだ。めざすべきは、心を通じ合うことだ。

 カワセミたちはここ十日ほど遊んでくれない。(この雄は他のエリアから来ているのだと思うのだが)雄が雌を追って忙しそうに川を上っていき、また下ってくる。春は生き物たちの恋の季節である。植物たちも冬の間身体の内側全体に巡回させ、蓄えていた命の精を枝先の蕾に集め始める。去年の春、一羽の雌が川面に突き出た枝に留まっているのを見つけた。毛繕いをしている。大きな嘴と短い脚を使って首を捻り、羽を広げ、丁寧に丁寧に繕う。随分と時間をかけているなと思っていると雄がやって来た。始めは少し離れた枝に遠慮がちに留まる。雌は素知らぬ顔で毛繕いを続ける。ぽちょん、雄が水に飛び込んで魚を獲る。そうして魚を咥えて雌のいる枝にいく。少しずつ雌への距離を詰めていき、魚を咥えた嘴を雌に突き出す。雌が魚を受け取ると恋の成就である。毛繕いの丁寧さから全く予想はついていたが、雌は魚を受け取る。二、三匹魚を贈ると二羽は一つになる。しかし、恋は最初からうまくいくものではない。二月の今頃から何週間か、雄は雌を追い、魚を差し出し続ける。雌は雄から逃げ回る。雌が雄の贈り物を受け入れるまでしばらく追いかけっこが続く。今年の若い二羽は、今、この追いかけっこの最中である。ぼくなどには構ってくれない。

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(早稲田大学日本語教育研究センター 非常勤講師)

                               satojie@gmail.com