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#33

宇佐美洋(2014)『「非母語話者の日本語」は、どのように評価されているか―評価プロセスの多様性をとらえることの意義―』ココ出版

李 思雨

 オンラインマガジン「トガル」で、人生に影響を与えたバイブル的な作品を紹介しませんか、というお声がけをいただいたとき、私は喜びを感じ、気合を入れて良い紹介を書きたいと思いました。
 この「参考文献番外編」というコーナーは、単なる作品紹介にとどまらず、紹介者自身の解釈や、その背景にある人生の物語や価値観を語る場でもあると理解しています。これまでの記事を読んで、多くの魅力的な作品に出会うとともに、それを紹介する方々の生き方が伝わってくる文章に、何度も心を打たれました。作品が読者自身の人生にもつながり、何らかの共鳴や気づきや前向きな変化をもたらす――それは本当に素晴らしいことだと感じていました。
 では、私自身が人生に響きを与えられた作品を紹介するなら、どんな一冊を選ぶべきだろうか。そう考えたとき、すぐに思い浮かんだ本があり、ぜひその本についてお話ししたいと思いました。

 私は大学で日本語を学び始めました。それ以前には英語とフランス語も学んでいましたが、どの言語の学習においても、「ネイティブのように話せること」が最終目標でした。母語話者の話し方を聞いて、その発音や表現を真似して、ある程度の成果を感じることもありました。練習した話題なら流暢に話せるようになったり、発音が良くなったり……。けれど、当然ながらこの目標は簡単に達成できるものではありませんでした。そして、この目標を追い求めるほど、次第に劣等感を抱くようにもなりました。自分の言語運用を母語話者と比べれば、違いは多く見つかりますし、たとえ意味が伝わったとしても、そうした違いは母語話者にすぐに気づかれ、「適切でない表現だ」とか「この人の言語能力が高くない」と思われるものではないか――そんな不安が、心のどこかにありました。
 私は、大学院進学に際し、この「ネイティブのようになる」という目標を見直すきっかけを掴みました。それは単に「達成が難しいから」ではなく、一冊の本との出会いによって生み出されたものでした。

 大学院進学に際し、自分が研究を通して最終的に何を目指すのか、という「研究観」を確立する時期を迎えました。私が大学院に進んだのは、人がより幸せに生きていくことに貢献できる言語教育を実現させたい、という思いがあったからでした。しかし、これまでの自分自身の言語学習経験を振り返ってみても、幸せな瞬間はたくさんありつつ、上記のような劣等感を拭き去る言語教育とは、どのようなものなのだろうか、という悩みも抱えていました。
 もちろん、自分の学習目標そのものに何か問題があるのではないかと、そう考えたことがなかったわけではありません。しかし、逆に、「母語話者の考え方や意見がわからなくても良い」とか、「非母語話者だから勝手にして良い」といった考え方だと、非母語話者の自分が言いたいことがうまく伝わらないのではないか、そして、その考え方では、私も含めて目標言語やその言語に関わる人・文化を深く知りたい学習者にとっては、納得しきれない部分があるのではないか、とも思っていました。したがって、私自身、言語学習・教育においては「母語話者の言語運用」をどう扱えば良いのか、もやもやした気持ちを抱えていたと言えます。

 そんな私にとって、今回ご紹介する一冊である『「非母語話者の日本語」は、どのように評価されているか』(宇佐美洋著)との出会いは、まさにそうした悩みからの解放をもたらす希望の光でした。この本では、非母語話者の日本語運用が、日本語母語話者からどう評価されているかに着目し、そうした評価が実際にいかにばらつきうるものであるか、また評価する際の観点やプロセスがどのように多様であるか、その全体像を示したうえで、評価プロセスの多様性(そして普遍性)を捉えることの意義を考察しています。
 この本からは多くの気づきを得ましたが、特に私の心を軽くしてくれたのは、母語話者といっても評価の基準や価値観は一律ではない、という視点でした。本書は、いろいろな意味で従来の評価研究とは異なる切り口から議論を展開しています。例えば、非母語話者の言語運用に対する、母語話者の評価を扱っていますが、教師のようなエキスパートによる、妥当性と信頼性を備えた安定的な評価にとどまらず、一般の日本人が日常生活で随時行う評価へと視野を広げています。こうした「評価」を研究対象としたうえで、「評価」を改めて次のように定義しています。

 主体がもつ内的・暗黙的な価値観に基づいて、対象についての情報を収集し、主体なりの解釈を行ったうえで、価値判断を行うまでの一連の認知プロセス。またその結果として得られる判断。(p. 2)

 つまり、評価者が、話し相手の言語運用を評価する際には、自らの主観的・恣意的な価値観に基づき、情報を収集・解釈し、そのうえで価値判断を下す、ということです。本書の考察からもわかるように、実際には、母語話者の中でも、価値観が違ったり、情報収集や解釈の方法が違ったりすることが十分ありえます。したがって、最終的に得られる評価の結果も、人それぞれ違ってくる可能性があると考えられます。
 これを受けて、私は、「相手の言語運用が、母語話者である自分と同じか違うか」だけで、相手の言語運用を「適切なものか不適切なものか」と一方的に価値づけることは、(現実にはありうるとしても)あくまで数ある価値観の一つに過ぎず、すべての母語話者がそのように評価するわけではない、と思うようになりました。また、こうした、自らの言語運用を自明な正解のように思い、他者の言語運用を一方的に価値づけるやり方は、多様な価値観が平等に存在する多文化共生社会にふさわしいものではない、ということも本書から読み取れました。自分の言語運用が、目の前の母語話者と異なるからといって、それだけで低く評価される必然性はなく、「劣るもの」でもない、ということに気づくことができたのです。

 さらに、この本は、実際に母語話者から一方的に評価された経験のある人だけでなく、現代の多文化共生社会における、ことばのあり方・使い方に興味があるすべての人におすすめできるものです。私の場合、多くの母語話者がとても優しく、寛容な態度で接してくれました。それにもかかわらず、なぜ私は「母語話者のように話さなければ」と思い込んでいたのでしょうか?振り返ってみると、この目標設定の背後には、「母語話者の評価は一貫しており、それに自分も合わせなければならない」と、自分で自分を束縛する枠を作っていたのだと気づきました。
 そんな中で本書を読み終え、まさに「解放感」を感じました。言語運用に対する評価の本質を理解し、評価プロセスの実態ならびに多様性を知ることで、自分の中にある「母語話者からの評価」に対する恐怖を少しずつ手放せるようになりました。誰もが幸せに生きる社会では、「他者の考え方」は本来的に多様であり、そして自分の考え方はそれらの様々な考え方と平等に存在するものです。他者の考え方を一つのブラックボックスのまま推測し、自分を合わせようとする必要はありません。また、このような、異なる文化や価値観を尊重しつつ、自分らしいことばを使い、他者と分かり合える力こそが、「言語能力」の重要な一側面ではないか、という思いに至り、今後の方向性が明確になりました。他者の価値観を理解し、自分の価値観を他者に伝えるための手がかりも得られました。この「解放感」は、私の言語学習・研究・教育実践の「バイブル」となっていると言えます。

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