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#13

『子猫をお願い』(チョン・ジェウン)

梶原彩子

 この映画を見たのは大学3年生のときです。周囲は就職活動に入り、大学生活の終わりが見えていました。それまではだれも気にしなかったのに、「いいな」「すごいね」といった価値判断を表す言葉に空気がピリつくようになった時期でした。それは中学、高校の卒業前とも通じるものがあり、私たちの関係性がまた変わっていくことを実感するときでもありました。

 この映画では、商業高校を卒業したあとの5人の女性が描かれています。高校時代は仲良しだったのに、少しずつ互いの立場や考え方の違いが見えてきて、関係性の変化に向き合わざるを得なくなるのです。当時の私は心を動かされながらも「今の私だから泣きそうになるけど、後から見たらまた違うはず」とわざと冷めた目で映画を見ました。

 印象的なシーンがいくつかあります。まず、家族の外食で、父権的な父親が家族の意見を聞かずに、メニューを勝手に決めてしまう場面です。娘は「そういうのも『暴力』だ」と言うのですが、父親には全く伝わりません。そして、仲良し5人のなかにも「伝わらない」が増えていきます。一方が「自由」というものを、もう一方が「そんなもの自由とは思わない」と言い切ります。一方がこれまでと同じかたちで「友情」を保とうとするのに対し、もう一方は「昔のもの」の「何がそんなに重要なのか」と切り捨てます。「じゃあ、今のあなたにとって重要なものは何?」と問いに返事は返ってきません。一方にとっては明確なことも、もう一方には不明確なのです。

 「暴力」「自由」「友情」…言葉の意味は同じなのに同じじゃない。人の経験が変われば、文脈が変われば言葉の持つ意味が変わっていく。今考えると、ごく当たり前のことです。ただ、冒頭で触れたように、置かれた文脈の変化で言葉の意味が変わることは、当時の私にとってはとても疲れることでした。

 大学卒業後、韓国で日本語を教えるなかで、私にとっての「言葉の意味」の「意味」も変化しました。学習者の質問などから、似た言葉の意味や使い分けに関心を持つようになりました。学習者に上手い説明ができたとき、その説明にあてはまらない様々な文脈が頭によぎりながらも高揚感を感じました。「言葉の意味って何だろう。すべての文脈に矛盾しない説明はないのではないか。」と冷めた目で自分を見ながらも、文脈と言葉の意味を考える作業は、私にとって好きなことになりました。

 大学院に入り、意味を客観的な現実世界の反映ではなく私たち(認識主体)の主体的解釈であるとする認知言語学の意味観に出会いました。個人の解釈を切り捨てないというところに共感しました。大学時代の終わり、焦りや不安によって私たちの間で「いいね」「すごいね」という言葉の持つ意味が変わった経験や、『子猫をお願い』で心を動かされた各シーン、映画を見て私が抱いた感想などがつながったような気がしました。

 その後、博士論文を書きながら、私にとっての言葉の意味を考えることは楽しいものではなく、苦しいものへと変化していきました。経験によって、言葉の意味が、見える世界が変わることを実感しました。

 私の人生のなかで様々な言葉がその意味を変えてきましたし、これからも変わり続けていくと思います。誰かにとっての「日本語」「教える」「研究」「意味」の意味と、私にとってのそれらの意味は異なります。私は、個人の解釈を切り捨てずに、「言葉の意味を考えること」を考え続けたいと思っています。

※実は、この映画を見たのは一度だけです。私にとっての意味が変わってしまうのが嫌で当時のままにしてあります。記憶違いなどがあるかもしれませんが、ご容赦いただければ幸いです。

映画情報:
チョン・ジェウン(監督・脚本)(2001)『子猫をお願い』(原作名:[고양이를 부탁해])、ポニーキャニオン=オフィス・エイト(発行元)、日本公開2004年。

紹介した人:かじわら あやこ

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