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日本で働くことの苦労と喜びと。

今、振り返るEPA看護師介護福祉士受け入れの10年

     

若林佐恵里

「日本にきて頑張って3年働きました。

 勉強も頑張って介護福祉士の国家試験にも合格しました。

 施設でも指導者の立場になって、来年は10年目だから永住権もとろうと思いました。

 それなのに、永住権がなければアパートに住み続けることはできないと言われてしまいました」

 

SNSのタイムラインに流れてきたそのメッセージをみて、

平井辰也さんは驚いた。

 

メッセージを発信したのは、

大阪で介護福祉士として働くインドネシア人のフェガさんだった。

 

彼女が来日したのはEPA(二国間経済連携協定)における介護福祉士候補者受け入れのプログラムだった。受け入れが始まったのは2008年。平井さんは、当時の勤務先であったAOTS(海外技術者研修協会 現・一般社団法人海外産業人材育成協会)でこのプログラムの受け入れに当たって、研修のコーディネーターをしていた。

 

インドネシアから日本へそして北欧へ

 

 フェガさんは2009年に来日した。今年で10年だ。彼女は大阪にある施設で介護福祉士として働いている。赤いジルバブの笑顔が印象的な女性だ。

 

 そんな彼女は去年、勤務先の施設に推薦されて、スウェーデンとフィンランドに研修旅行に行ってきたという。

「ヨーロッパに行って世界が広がりました。インドネシアと日本しか知らなかったけど、福祉国家であるスウェーデンとフィンランドをみて、もっと介護を深く学びたいと思いました」そう言って目を輝かせた。

 

 フェガさんはジャワ島中部のチラチャプ出身。ジャカルタの看護大学を卒業後、ジャカルタの病院で看護師として働いていた。友人からEPAのことを聞かされ、応募した。「その時は日本について何も知りませんでした。桜くらい?」と笑った。

 

辛いこともあったけど、忘れました。

 

 インドネシア介護福祉士候補者第2期のフェガさん。本国で4ヶ月の日本語研修を受け来日。さらに、日本国内でも日本語の研修を受け、その後、大阪の施設に着任した。そして、その時から今日まで10年、その施設で働くインドネシア人はずっとフェガさんただ一人だけだ。

 

 一人で特に辛いのはラマダン(イスラム教徒の断食期間)中だそうだ。「インドネシアならみんな食べないから大丈夫ですが、ここでは私一人だけが食べられない。それは辛いですよ」と言って笑った。

 

 そういう意味では食べ物にも苦労した。今でこそ観光客も増え、イスラム教徒は豚肉を食べないことや、ハラル認証のレストランも増えてきてはいる。しかし、10年前はイスラム教徒に対する理解はほとんどなかった。「職員食堂で豚肉が食べられないと言ったら、じゃ、ご飯を2杯食べたら?と言われました。それはちょっと悔しかったですね。そういう問題ではありませんから」とフェガさん。しかし、少しずつではあるが理解が進み、職員食堂の献立表を事前に渡してくれるようになったという。それを確認して、豚肉がある日は弁当を持参している。「私にとっても、日本が初めての外国ですから、こんなに豚肉が食べられているなんて思いもしなかったんです」と振り返る。

 

 仕事について聞くと、「辛いこともたくさんありました。でも、忘れました」と微笑むフェガさん。その微笑みからは、きっと言葉にならないことがあったのだということを察することができた。アパートの件もそのひとつだろう。いてもたってもいられず、SNSに投稿してしまったそうだ。その投稿を見た平井さんが交渉を手伝ってくれたのだと教えてくれた。

 

認知症だからこそ、わかることもある

 

 そして、フェガさんは静かに語りはじめた。「着任して最初の利用者さんが亡くなったときは悲しかったです。ご家族が誰も迎えに来なかったから。インドネシアではありえません。もちろん、インドネシアでも親子の関係が悪いことだってあります。でも、誰も来ないというのは…。だから、日本人はほとんどしないし、本当はダメなんですが、ボディシップをします」体をさすったり、ハグしたり、冗談で「あっかんべー」したりと身振り手振りを交えて話してくれる。

「自分は必要とされていないと感じるのは寂しいことです。でも、ボディシップがあれば人のあたたかさを感じるでしょう」と話す。「認知症だからといって、何も感じていないのではないんです。認知症だからこそ、わかることもある。誰が自分のケアをしているか、しっかりわかってくれています」

真剣な表情でそう語るフェガさんは専門家の顔をしていた。そう、フェガさんは介護の専門家なのだ。

 

 将来インドネシアに帰ったら、日本の介護技術を広めたいと話す。「日本に来て、インドネシアは障害者や高齢者に優しくないと気がつきました。全然バリアフリーじゃない。そして、日本からスウェーデンに行って、本当のケアについて学びました。日本の介護も完璧じゃないことを知りました。もっと深く学んで誰かの役に立ちたいです」

 異国で働く苦労を乗り越えた末の、学ぶ喜びと誰かの役にたつという幸せ。それはフェガさんを一生支え続けるのではないだろうか。

 

 こんなことも話してくれた。フェガさんのおばあさんは80歳を超えて、白内障を患っていた。だんだん衰えていく視力。そして体力。夜間にトイレにいく回数も増えつつあると国の家族に聞かされた。フェガさんは日本にいて、どうすればおばあさんの力になってあげられるか考えた。インドネシアの実家はトイレが屋外にあり、また水浴び場もかねているため、床は常に濡れた状態だ。目の不自由なおばあさんが夜間に屋外のトイレに何度も行くと、転倒して骨折する恐れがあった。骨折すると寝たきりになってしまう。それを心配したフェガさんは、日本からポータブルトイレ、滑り止めのマット、シャワー椅子を送った。どれもインドネシアにはないものだった。おばあさんは、とても喜んでいたとお母さんから聞かされた。おばあさんが亡くなったのは、日本からの介護用品が届いてから2ヶ月後、94歳だった。

 

EPA看護師介護福祉士受け入れとは何か?

 

厚生労働省のホームページにはこう書かれている。

日・インドネシア経済連携協定(平成20年7月1日発効)に基づき平成20年度から、日・フィリピン経済連携協定(平成20年12月11日発効)に基づき平成21年度から、日・ベトナム経済連携協定に基づく交換公文(平成24年6月17日発効)に基づき平成26年度から、年度ごとに、外国人看護師・介護福祉士候補者(以下「外国人候補者」という。)の受入れを実施してきており、累計受入れ人数は3国併せて5,600人を超えました。(平成30年8月末時点)

これら3国からの受入れは、看護・介護分野の労働力不足への対応として行うものではなく、相手国からの強い要望に基づき交渉した結果、経済活動の連携の強化の観点から実施するものです。

(出典:厚生労働省HP

 このプログラムでは、まず、看護師、介護福祉士候補者と日本の施設とのマッチングが行われる。そして、候補者は訪日前日本語研修を6ヶ月受ける。その後、来日し、日本国内でさらに6ヶ月の訪日後日本語研修を受ける。現在はほぼ1年かけて日本語研修が行われるが、開始当初はもっと短かった。その後、マッチングした日本の病院または介護施設に着任する。そこでは看護師候補者は日本の看護師国家試験を目指して、3年間、働きながら勉強する。3年間の滞在中、3回の受験のチャンスがある。介護福祉士候補者は3年間の実務経験のあと、初めて介護福祉士の国家試験を受ける。つまり、チャンスは一度だけだ。合格すれば、日本で看護師、介護福祉士としての就労が認められ、VISAも無期限に更新される。しかし、合格できなければ、帰国を余儀なくされる。ただし、再来日して、再受験することは可能であり、合格すれば日本での就労が可能となる。

日本語と国家試験のハードル

 試験は日本語で受ける。一般的に考えてみてもハードルの高さがうかがえる。しかし、最初の年こそ、合格者が出なかったものの、2年目以降、ひとりふたりと合格者がではじめた。が、その他大勢の候補者たちには、なかなか難しかった。それもそのはず、当初、候補者たちは看護師を目指す日本人と全く同じ試験を、なんのハンデもなしに受けていたのだ。筆者もEPA看護師の日本語教育に数年携わったが、日本語の複雑なところは、日常的に使う言葉の「うがい」を、試験では「含嗽(がんそう)」などど専門用語で問われ、または、現場では「ガラガラペー」などといったりすることだ。この日本語の成り立ちが、問題をより複雑にしていた。そんな声の高まりもあり、平成24年度よりEPA候補者への特例として、全ての漢字にふりがなを打つことと試験時間の延長が認められた。また、滞在最終年の国家試験に合格できなかった場合、試験の得点などの条件を満たせば、滞在を延長でき、次年度の試験を受験可能とするという制度もできた。

辛い状況の候補者の相談窓口に

 平井さんはコーディネーターとして、日本語研修に関わっていたとき、研修に行きたくても行かせてもらえない候補者の相談にのった。そして、日本語研修に関わらなくなった後も個人として、研修後、日本全国の各施設に散っていった候補者たちの相談にのってきた。その相談には以下のようなものがあった。日本語研修中に結核が発覚してしまった候補者は、病院から受け入れを拒否された。妊娠した女性は帰国を促された。イスラム教徒である女性の候補者は頭にかぶるジルバブを禁止された。その後、平井さんはEPA看護師介護福祉士ネットワークを立ち上げる。EPAで来日している看護師と介護福祉士の相談窓口として活動している。そのなかではこんな事例もあった。看護師候補者として来日しているにも関わらず、日曜日に英会話のレッスンをさせられたり、早く出勤して洗車をさせられた候補者の相談を受けた。施設側の言い分では、そのボランティアをすれば、寮費の20000円を免除するということだったが、候補者は、20000円を支払ってもいいからボランティアをしたくないと言った。そうするとパワハラが始まったというのだ。このように平井さんの元に寄せられる相談は枚挙にいとまがない。

 日本に住む日本人なら、こんな職場に就職してしまった場合、どうするだろうか。もちろん、転職を考えるだろう。しかし、一番の問題は転職のハードルが極めて高いことだと平井さんは言う。「止むを得ない事由があって、それを認めてもらえなければ、施設を変わることもままならない。それがEPAの制度です」

 実際は国際厚生事業団(通称JICWELS)という相談窓口がある。このJICWELSは候補者と施設のマッチングや国家試験に向けての学習支援、年に1回の各施設への巡回を行っている公的機関である。しかし、ここには相談せず、平井さんの元に相談がいくのだ。それはなぜか?平井さんはいう「JICWELSに相談しても、施設側に事実確認して最終的に双方で話し合って解決してという場合がほとんどなんですよ。しかも、相談担当専門の職員は一人しかいません。それで、候補者は施設側に『なんで相談するんだ』って叱られるんです」平井さんは彼らの言葉に耳を傾ける。施設を移動できるように、有給休暇が取れるように、ジルバブをかぶるという権利が認められるように。彼らとともに、権利獲得のために実際に動いていくのだ。平井さんが話している表情や口調からもどれだけ真剣だったかがうかがえる。強い口調で交渉する。そうでもしなければ、動かないからだ。

 

誰もしないことをこだわりを持って

 

「なぜそこまでして?」と尋ねた。するとこう返ってきた。「誰もやろうとしないからです」誰かが助け舟を出さなければ、候補者たちは心に傷を負い、日本に絶望して帰国するしかなくなる。その前にできることがある。平井さんは誰もが目をつぶる現実を見て、誰もがやろうとしないことをこだわりを持ってやる。「よく悪い事例ばかりでなく、良い事例も紹介してくださいと言われるんですが、悪い事例も良い事例もありません。事実があるだけです」と語る。その事実から目をそらすことなく、戦ってきた10年だった。それは安全地帯から手を差し伸べる、なまやさしい支援などではなかった。候補者の傍にたち、権利獲得のため、ともに大きなものに立ち向かって行ったのだった。そうすることによってひとつひとつ権利を勝ち取ってきたのだ。

 

 一度帰国した候補者を再受験させるプログラムに協力したこともある。「日本語の適性が低く、絶対合格できないと思った候補者でも、諦めなければ合格できたんです。彼らには日本語教師としてのビリーフを塗り替えられてばかりです。諦めずにチャンスをつかんで、日本に家族を呼び寄せて、幸せに暮らしている人もたくさんいるんですよ」

 

未来は戦ってこそ得ることのできるもの

 

 平井さんはいう。「私はよく彼らの仕事の愚痴を聞いています。ファミレスに集まって3時間くらい話すんですよ。彼は本当に日本人をよくみていると思います。最近の介護施設では『あの外人さんいつくるの?』と利用者さんが尋ねることもあるんだそうです。彼らは丁寧に仕事をするし、利用者さんに対して優しいですよ。日本語に自信がないぶん、聞きもらすまいと利用者さんの言葉に耳を傾けますしね。利用者さんにとっても、そのほうがいいですよね。最近やっとそういう話も聞こえてくるようになりました。そうなると、インドネシア人の介護士も増えていくでしょう」どこの施設にいっても今は圧倒的な少数派であるインドネシア人介護士。しかし、彼らの仕事が認められば、少数派ではなくなる日も、もしかしたら近いのかもしれない。

 

 この先の10年はどんな10年になるだろう。日本人であれ、外国人であれ、安心して働けるようにと願わずにはいられない。だが、そんなよりよい未来は何もせずには訪れない。誰かの悲しみに誰かが寄り添い、生きやすい世の中になるようにたたかってこそ、得られるものなのだ。

 

※本記事は2019年6月に取材・執筆したものに加筆・訂正を加えたものです。

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