書名:日本語教師の専門性を考える
(ココ出版、2021.6.30)
幾重もの対話の中でいっしょにつくる
舘岡 洋子
(早稲田大学)
日本語教師の専門性という課題
日本語教師の専門性というトピックには、ずっとモヤモヤした気持ちを抱えていた。そもそも日本語教師という用語にもひっかかりを覚える。
出版後、読者の方々からいただいたご意見は大きく2つに分かれる。ひとつは、すっきりした、同意!というもの。もうひとつは、なんかこれができれば専門家だといえるような専門性が語られると期待したのに、専門性についてちゃんと書いてないじゃん!というもの。後者の読者はたぶんほかの職業の人にはできない日本語教師ならではの仕事が記述されていると期待したのだろう(おそらく「一般的・静態的専門性観」の呪縛から逃れられないのかもしれない)。
私自身、専門性とは何か、と考える中で「専門性の三位一体モデル」がでてきたわけではない。ピア・ラーニングやら協働学習やらの教師研修をすると、研修後に「そのうち読解を担当するようになったらやってみますね」とか「今は初級を担当しているので、すぐに役に立ちそうではないんですが、お話はおもしろかったです」などという反応をもらうことが少なくない。実践事例をたくさん提示はするものの、すべて私自身の事例だから、聞き手は今回は自分にピッタリの話ではなかったな、すぐには使えない(!)という気持ちになるのかもしれない。しかし、そうは言われても全ての聴衆にあった授業事例の提示なんてありえないし…そもそも授業のあり方は無数にあるわけだし…。そこで、研修の最後に本書で提示した図「専門性の三位一体モデル」を提示して、説明を加えることにした。「どんな日本語教育をめざすのかというご自身の理念(とりあえずこれを日本語教育観とよぶ)とご自身が担当しているフィールドの固有性との間でもっともふさわしいピア・ラーニングを考案してくださいね。今回の事例では私の日本語教育観を私のフィールドで実現しようとしたらこんな感じ…ということを紹介しました。「先生方の理念を反映した、先生方のフィールドにぴったりの方法は先生方じゃなきゃ編み出せないと思いますよ!」というふうに。どんなフィールドに立っても、そこでふさわしい学習環境をデザインするのがプロというものでしょ、そのとき、この三者(理念、方法、フィールド)は一体ですよね、と。そこで、理念と方法とフィールドが一体であるこのモデルを「専門性の三位一体モデル」と呼ぶようになった。
教員/専門家養成についても同様だ。私の目の前にいる日本語教育学を学んだ院生たちも、修了後、どんなフィールドで働くのかわからない。そもそも日本語教師になるかどうかもわからない。また、社会の変化も激しいから、学んだことが直接、フィールドで役に立つかどうかもわからない。その人たちに専門家養成をするとはどういうことか。結局、自分が立ったフィールドで持てる力を総動員して自身が考える日本語教育を実現しようとさまざまな工夫をし、専門家として独り立ちしていくことではないか。そうなると必要なのは、あるフィールド用の「〇〇のための日本語教育」の知識やスキルではなくて、自分がどこに行ってもなんとか頑張れる日本語教育の専門家としての軸のようなものだ。だから、どんな状況にあっても、自分が立ったフィールドでそのフィールドの有り様を適切に理解し、自身の理念に照らして、最適な学習環境や学習方法を編み出すことは、すごくシンプルだけれど専門家としての当然のことではないか、というか、それができなければ専門家とはいえないでしょ、と思う。
いまさらこんなことを言うのはあまりに当たり前すぎるかもしれない。しかし、案外、日本語教師たちは適切な方法を探すことに腐心して、三者の一貫性ということ問うてこなかったのではないか。
このところ社会の変化は本当に激しくて、身につけたはずの知識や技能もすぐ陳腐化してしまう。今まで、日本語教師は外からの社会的な要請に応えていろいろなフィールドで活動してきた。対象もビジネスマンだったり、技術研修生だったり、技能実習生だったり…。大人もいれば子どももいる…。目まぐるしく動く社会の要請に日本語教師たちは一生懸命に応えてきた。しかし、ソトから役割を規定されるばかりで、自身が日本語教育をとおして何を実現しようとしているのか、そのことを真正面において考えたり語ったりしてこなかったのではないか。日本語教師は何をする人なのか。日本語教師たちは、何を実現したくて日本語教師をしているのか。
そして、こういうことをいっしょに考えたり、話し合ったりする場はあっただろうか。〇〇の教え方の研修はたくさんあるけれど、内側から自分たちの仕事を問い直すような場はあっただろうか。そこで、三位一体モデルを使って対話をとおして自身の教育実践を再考しあう場として「三位一体ワークショップ」を実施することになった。
ワークショップにおける他者との対話
実際、ワークショップをしてみると同じようなモヤモヤした気持ちを多くの人がもっていることがわかり、互いに共感することも多かった。また、それを言語化するプロセスで、今まで気づかなかったことや考えたこともなかったことを他者から指摘され、いろいろな気づきが生まれるということも起きた。
ある教師は勤務校が相対評価だし、テストの点数重視だし、評価が明確でない活動はやりにくい、だから自分がやりたいことが今の勤務校では全くできずに困っている、と話していた。それに対して、別の教師が全く別の文脈で自身が行った工夫や学生の変化の話をした。すると、それを聞いていた先の教師は急に気づきがあったと話し始めた。自分が思い込んでいて壁をつくっていた、他の教師の話を聞いていてそういうことなら自分もやれると思った、というのである。
やり取りの中で、当初は想定していなかったところに気づきが生まれるのが対話の力ではないだろうか。
本作りにおける幾重もの対話
そもそも対話の力については、この本が作られるプロセスでも大いに体験した。幾重もの対話の中で新しいアイディアが生まれたり、それが拡がっていったりしたのだ。本書は15章から成るが、うち単著は6本だけ、ほかはすべて共著で、しかも1本につき5人、6人による共著もある。百科事典的な本ならともかく、わずか277ページの1冊の本の中で著者が合計22名もいる本はあまりないのではないか。
第1部の問題提起編から第4部の実践編に至るまで、各部がゆるいコミュニティを形成していて、コミュニティ内で議論しアイディアを出し合う→原稿を執筆する→読み合う→議論し、ボコボコにされる→憤慨しながら書き直す→読み合う→さらに修正するという活動を繰り返してきた。初めから言いたいことが決まっていたというよりは、対話をとおしてだんだん言いたいことが明確になってきたといったほうが適切だ。だから、えらく時間がかかる。それぞれの部のコミュニティの中で対話をとおしたやりとりがあり、それがゆるくつながり、さらに全体のコミュニティの中で対話をとおしたやりとりがある。幾重もの対話から成っているコミュニティが別のコミュニティと重なりあっている。
だれかがもともとアイディアをもっていて、それを他者に披露したり伝えたりするのではない。みんなが対話をしているうちに、みんなの「間に」アイディアが生まれるのだ。これは、いままでいっしょに考えてきたという共通の土壌があるから起きたことかもしれない。そして、興味深いのは、この議論のプロセスで当初は使っていなかったことばが新たな概念を説明するためのことばとしてみんなの「間に」生まれ、コミュニティ内の共通のことばとして流通するようになっていったことだ。たとえば、「準拠枠」とか「参照枠」とか、また「一般的・静態的専門性観」とか「個別的・動態的専門性観」とか。
そして、部と部をつなぐ「ナレッジ・ブローカー」なる人物がある部で生み出されたことばとコンセプトを別の部に伝播させる。たとえば、第1部の著者のひとりは、第3部の著者のひとりでもあり、あっちの議論で考えたことをこっちの議論で展開する、などなど。また、各部の原稿をもちよって全体会を開くときには、これらのことばはさらに大きな全体コミュニティの中で共有され、共通のことばとなっていった。この新しいことばの誕生、共有、使用、流通のプロセスは、そのまま本のコンセプトの明確化プロセスでもあった。鍵概念となるあらたなことばの誕生がコミュニティとコミュニティをつなぎ、また各部の概念をつないでいったといえるだろう。
一般的に数人で分担執筆をする場合は、執筆者各自にテーマが与えられ、あるいは執筆者自身がテーマを提示し、責任をもって各章を仕上げ、それらを集めて1本の本にまとめるのではないか。今回の本作りは分担執筆ではない。まさに幾重もの対話によって、あっちで発生したものとこっちで発生したものがつながりながら、増殖し、全体として進化していったのである。これは興味深い経験だった。まさにそれこそ「いっしょにつくる」プロセスの体験であった。これからワークショップの場で、専門性の三位一体モデルはさらに進化し、参加者を巻き込んでコミュニティも、また一人ひとりの構成員も進化していくことを期待している。