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第3回

感情を自然に流せる大人

お客様:版画作家 金海仁さん(ケイさん)

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ママは窓の外の空を見遣る。飛行機が一機、西へ向かって飛んでいく。
初夏。若者たちはもうすぐ来る夏休みに何を期待しているんだろう。海外旅行もだんだん規制が緩くなってきているが、出国も帰国もPCR検査とかあって結構面倒そう。先月来店してくれたさとみちゃんが就活を終えてインドに行く頃にはなんとかなっているのだろうか。

 カラ〜ン。熊よけ鈴を鳴らして満面の笑みで店に入ってきたのは、30代前半の女性である。

ケイ:ママ、こんばんは。
ママ:ケイさんじゃないの〜。久しぶり! 札幌からわざわざ?
ケイ:東京が懐かしくなりまして。梅ハイボール、お願いします。

 ケイさんは版画作家である。母国の韓国で美術系の高校と大学に進み、大学では版画を勉強した。その後、武蔵野美術大学に留学して修士課程を修了し、一度韓国に戻ってから再び日本に移住した。今は結婚して札幌に住んでいる。

ママ:札幌はどう?

 ケイさんの好物の紅生姜入り厚焼きたまごを小さな厨房でこさえながら、ママは若き芸術家に話しかける。

ケイ:気に入ってます。夏は暑すぎないし。食べ物はなんでもおいしいし。なによりも静かだし。
ママ:よかったね〜、私も北海道大好きよ。

 出来立てのたまご焼きをケイさんの前に置く。梅ハイボールといい、紅生姜入り厚焼きたまご焼きといい、なかなか渋いチョイスをするものだ。

ママ:ケイさんはどうして日本に来たの?
ケイ:うーん、日本に来た理由は二つあります。一つはポケモン。私が小学校1年の時、韓国にポケモンが入ってきたんです。ニュースでポケモンセンターのことを知って、日本にはポケモンが住んでるんだ!って衝撃を受けました。その時、初めて日本という国を知りました。
ママ:ポケモンが好きなんだ。ポケモンとケイさんの進路は関係ある?
ケイ:私、子供の頃からファンタジーが好きでした。自分に羽があったらいいなあって思ったり。現実には無理ですけど、紙の上なら、羽、自分の背中につけられますよね? 
ママ:なるほど。
ケイ:韓国の美術大学にいた時、暗い時期があったんです、私。何かに集中しないと生きていけないって思いました。その時、銅版技術の「メゾチント」(銅板の表面に傷をつけ、そのくぼみにインクを詰めて紙に転写する版画の技法)に出会ったんです。とても時間と手間がかかる作業で、他のことを忘れて集中できるんです。
ママ:辛いことがあったのね…。そうやって他のことを忘れて作った版画ってどんな作品になるの?
ケイ:私の作品にはいろんな生き物が登場します。その生き物たちは、私の感情の一つ一つなんです。作品を見る人に、私はシグナルを送っています。「私を見つけて!」って。生き物たちは私の感情を表すキャラクターなんです。そうやって製作に打ち込んでいるうちに心の闇が晴れて、明るくなれました。
ママ:わあ! ステキね。
ケイ:本当は、大学の時、日本の大学に編入しようと準備していたんです。だけど、3・11でその計画は叶いませんでした。とてもショックでした。
ママ:それは残念だったわね。韓国の美大を卒業した後は?
ケイ:アニメーション制作会社に就職しました。
ママ:ポケモン、好きだもんねえ。
ケイ:でも、3ヶ月で辞めました。
ママ:なぜ?
ケイ:条件が悪かったんです。3ヶ月で1万円しか稼げませんでした。
ママ:げ! 「スナックまきこ」の方が稼げるわねえ。
ケイ:その後、デザイン会社で2年弱働きました。でも、ふと、人生これでいいのか?って思いました。このまま仕事して、それで結婚して、それでいいのかって。なんか、そういう決められた道をぶっ壊したいって思って。そう思った1ヶ月後に会社を辞めました。

 わかる、わかる! わかるわ、ケイさん!! 私もそうだった。人生これでいいのか?って思って後ろ髪も引かれず、スパッと会社を辞めた。「私を見つけて!」っていう感情、ケイさんが会社を辞めたいって思ってた時にもあったんじゃないの?

ケイ:それで、武蔵野美術大学の大学院に。
ママ:なんだか簡単そうに話してるけどさ、簡単じゃないよね、留学や受験。日本語はどうだったの?
ケイ:日本が好きだったから、20歳の頃から塾に通って日本語を勉強していました。ひらがなやカタカナは中学の時に独学で。
ママ:版画を勉強するために、なぜ日本を選んだの?
ケイ:日本は版画で有名ですよ、ほら、浮世絵とか。
ママ:あ、そっか。葛飾北斎も版画作家か。ポケモン好きのケイさんとしてはアニメーションの勉強をしようって思わなかったの? あまり稼げないにしても…。
ケイ: はじめは多摩美に行こうとしました。多摩美ってデザイン系の学科が有名なので。私がアニメーションを勉強するなら多摩美が一番ふさわしいと思っていました。だけど、アニメーションの会社に入ってわかったのが、そこでの仕事は、ほぼ下請けの仕事だってこと。オリジナルの作品を作れるわけじゃない。私は自分だけの作品を作りたかったんです。それに、私はコンピューターを使うんじゃなくて手作業の方が好きです。
ママ:なるほど。
ケイ:日本に来る時、自分の作品を見る人が安らげるような版画を作りたいって思いました。韓国の時の作品と日本に来てからの作品、全然違うんですよ。
ママ:どういうふうに?
ケイ:韓国時代のは全部白黒です。日本に来てからの作品は色があリます。白黒の作品は、現実に近いです。だけど、日本に来てから作ったものはファンタジーが8割くらいで、とても明るいんですよ。
ママ:そうなんだ〜。ケイさん自身も作品も日本に来て変わったんだね。

 韓国の暗い時期に何があったんだろう。気になる…。だけど、今、紅生姜入り厚焼きたまごを満面の笑みでほお張りながら話し続けるケイさんを見ていると、過去のことを知る意味などないと思う。

ママ:ねえ、ケイさん。ケイさんにとって大人って何?
ケイ:ナスが食べられる人です。
ママ:ナ、ナス? なんで?
ケイ:ナスが食べられる子どもっているんですか?
ママ:??????

 ピーマンが今だに苦手なママは何も言えず、質問を変える。

ママ:じゃ、ケイさんはどんな大人になりたいの?

 しばし、真剣に考え込むケイさん。

ケイ:難しいこととか、悲しいこととかあっても、自然に流せる? そんな大人。感情が激しくて抑えられない時、世界はこういうものなんだ、大丈夫って思える大人ですかね…。

ケイさんが自分の感情をキャラクターに変化させて自分の作品に描き、「私を見つけて!」と見る人にシグナルを送る理由がわかる気がする。ケイさんは抑えられない感情を作品にして自然に流しているのかも。

熊よけ鈴を鳴らして、ケイさんは店を出て行った。ドアを開ける前に「札幌芸術の森の工房で、版画製作を始めようと思ってるんです」と、ママに笑いかけた。

ケイさんなら、きっとステキな作品をうみ出せる! 大人へのエレベーターを華麗に登っていける!

ケイさんが大学院生時代、東京で個展を開いたことがある。ママも観に行った。彼女の作品には黒くて小さい、ユニークな表情のキャラクターがたくさんいた。それが彼女の感情だったんだ、とママは想う。自分という人間。それは他の人の目の前に現れてはじめてリアルになるんだな。ファンタジーという手法を使っても、それはリアルな自分を現わす術なのだ。

スナックまきこの「大人へのエレベーター」。次にスナックを訪れる若者は誰だろう。その若者はどのような大人へとつながるエレベーターを選ぶのだろう。乞うご期待!

(了)

※今回はケイさんの韓国時代の作品を紹介します! 日本時代の「明るい」作品は、7月号の「芸術アリス」で紹介します。ご期待ください♪

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