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しんちゃんの教師物語(23)

先日ヨーロッパから帰ってきたしんちゃんです。

スロベニアのルブリャナ大学で行われた日本語教育連絡会議と

イギリスのキール大学で開催されたヨーロッパ日本語教師会の年次大会に参加したのですが、

スロベニアの連絡会議の発表は特に研究発表や実践報告でなくてもいいとのことだったので、

「書くことについて」考えていることをお話ししました。

それは「しんちゃんの教師物語(21)」のエピソードで、

読み手、聞き手、聴衆、オーディエンスについて書いたものから発展させていったものです。

ですので、今回はその発表で話したことを少し書いてみようと思います!

(いつものようにどんどん脱線していくと思いますが、お許しください)


テクノロジー・技術が進んで、そのテクノロジー・技術とどう共存していくのかは

昔から歴史的に大きな課題になっていたと思います。

最初は話し言葉しかなかった時代に文字ができたとき、

そして、印刷技術が生まれ多くの複製が簡単にできるようになったとき、

その後、電話、メール、インターネットなど例を挙げればキリがありませんが、

最近ではAIがいろんな意味で人々の生活にかなりインパクトを与えています

(しんちゃんもAIを使わない日はありません!)。

AIとどう共存していくのかは、この時代に言語教育だけでなく、

どこの分野でも大きな課題になっているようです。

で、まずはAI以前から問題になりつつあった、漢字の手書きについて。

漢字はどの程度手書きで書けなければいけないのかという問題は、

アメリカでは最近いろいろなところで現場の先生たちに取り上げられています。

この見解はけっこう個人差があって人々のビリーフにかかわることなので、

なかなか統一見解を得るのが難しい問題でもあります

(漢字に関する言語政策の論争は昔からいろいろありますよね〜)。

で、しんちゃんはまず日常どの程度手書きで書いているのか考えてみました。

鉛筆やペンでは、付箋のメモ、尺八の楽譜に書くメモ、旅行した時に書く絵葉書ぐらいしか、

正直手書きで書くことはないな〜と思います。

しんちゃんの大学の日本語の授業では、学生は小テストや宿題をWordかPDFで

オンラインのフォルダーに提出することになっているので、

しんちゃんはタブレットのペンでコメントを書いたり採点をしたりしています

(正直Wordのコメント機能を使って挿入するよりこっちの方が早いので…)。

ただ、初級の学生はしんちゃんの手書きの文字が読めないことがよくあって、

それは、手書きの文字を読むことに慣れていないからのかなと思っていますが、

もしかしたら、しんちゃんの手書きの字が汚いか、癖がありすぎるのかも…


この漢字の手書き問題で考えなければならないのは、

日本語の試験やプレースメントテストを教室でするときの作文問題。

独習したり、ほかの教育機関から入ってきた学生の中には

タイプして漢字を選ぶことはできても、手書きとなるとしっかり漢字を覚えていないので

書けないという学生もいます。

どこまできちんと手書きで書けなければならないと考えるかには、

前の部分にも書いたように、個々人の先生や該当プログラムのビリーフや価値観が

如実に出ている気がします。

そして、ある意味学生たちはそれに振り回されるわけです。

そういえばしんちゃんが小学生の時、先生によって、

とめはねで減点されたり(されなかったり)、

また、突然試験に書き順のテストが入っていたりしていたことを思い出しました!

ほかに漢字で覚えているのは、

高校で芥川龍之介の作品の「鼻」と回答する問題で漢字を間違え

(鼻の漢字の上の自の目の部分を田と書き、真ん中の田の部分を目と書いたんです)、

大きく減点されました。

試験後の授業では、こんな変な漢字を書いた学生がいると

(匿名で)みんなのさらしものになったのですが、

しんちゃんは「ああ、それ僕です!」って手を上げて言って、みんなに大笑いされました。

それから40年、鼻という漢字を書くときはいつもいまだにそのことを思い出します。


AIが普及するにつれて避けて通れないのは、ライティングのオリジナリティに関する問題。

しんちゃんは最近、日本語でも英語でもフォーマルなメールのやり取り

(依頼、催促、お詫びなど)や報告書など定型表現が決まっているものは

ずいぶんAIの助けを借りて書いています。

これらのライティングには定型表現やフォーマットが決まったものが多いのですが、

書き言葉の定型表現は覚えて使えなくても、

見て選べればいい時代に来ているんじゃないかと思います

(漢字はすでにそうなっているんだと思います)。

現に時候の挨拶などは、昔インターネットが普及し始めた頃、

ネットで探せば簡単にいくつもフレーズが出てくるので楽になったなあ

と感じていたことがありました

(そう言えば、しんちゃんが昔営業マンをしていた頃

よくワープロで取引先に手紙を書いていたのですが、

その時ワープロのソフトに時候の挨拶のものがあった気がします。

それも選べばよかったので便利でした)。


最近よく日本語上級の授業で小グループの翻訳活動をします。

それは、翻訳機も参照しながら、

自分たちで英語のビジネスレターの日本語訳を作るという課題です。

でも、ある年学生たちが翻訳する前に、

元の英語ビジネスレターのトーンが強いのかそうでないか議論していたのですが、

かなり強い口調だという学生もいれば、そんなに強く感じないという学生もいて、

回答が学生によって違っていておもしろい(というかそれが当たり前?)と思いました。

そんなビジネスレターでも、口調だけでなく、敬語の使い方、長さ、送るタイミングなどなどで

自分らしさは十分に出せるんじゃないかと思います。


でも、自分らしさ、オリジナリティ、創造性って一体何なんでしょうか。

AIを含む人の助けをどこまで借りたら自分のものではなくなるのか。

そもそも自分の言葉である、オリジナルである、創造的であるってどういうことなんでしょう。

全くオリジナルの創造的な新しいアルファベットや文字を作っても

だれも読むことはできません。

結局オリジナルなものも創造的なものもこれまでにあった何かを新しく組み替えているだけで、

これはすでに多くの人たちが何度も言っていることです。

その組み換え方が斬新?だとオリジナルなもの、

創造的なものになるのだとしたらAIにも(いつか?すでに?)できるはず!。


借り物、だれかの、あるいは、何かからの引用と言えば、おもしろい話があります。

しんちゃんはアメリカの大学院で修士号と博士号を取ったのですが、

論文での引用については本当に何度もうるさくいろんな授業で先生に言われました。

直接、間接引用の仕方、ページ番号の記載、文献リストの書き方など

例をあげればキリがありません。

ただ、おもしろかったのはプログラムの中にいた

フランス出身でアメリカの大学で学位を取った先生が、

これはアメリカ式のやり方だと何度も言っていたことです。

フランスではある分野の論文を読んで、

過去の有名な著作や研究に関する引用を見てだれが言ったかがわからないような人は

その分野の論文を読む資格がないというようなことを言っていました。

ただ、これはもう20年ぐらい前のことですし、

今でもフランスではそうなのかはわかりませんが…


結局、オリジナルな創造的なものって過去の使い方を新しい組み合わせで使うことで、

やっぱりその分野にもAIがどんどん入ってくるんじゃないかと思います。

おまけに、書いた言葉は(話した言葉もですが)いったん自分を離れてしまったら、

読み手に「勝手に」解釈されるという点において、

もう自分のものではなくなってしまいますし、

ああ、書くこととオリジナリティって一体何なんでしょう!

しんちゃんはまたもや、もやもやしています。



(編集後記)

1.

しんちゃんはこのスロベニアの学会の後、

バルカン半島をアルバニア→モンテネグロ→ボスニアヘルツェゴビナと横断し、

イギリスの学会に向いました。

上の写真はモンテネグロのコトルの町の山の中腹にある小さな教会から撮ったものです。

ボスニアヘルツェゴビナで通算98カ国目です!


2.

そういえばこのエッセーを書くのにはまだAIを使ったことがありません。

過去のエッセーを入れてこんなしんちゃんの口調で書いてくださいと言ったら、

このつらつらだらだらとしたしんちゃんの口調はAIも真似できるのかも!

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