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しんちゃんの教師物語(22)

なんと、しんちゃん、現在東京にいます!

某大学で異文化コミュニケーション能力について考える1週間の集中講義を担当中です!

International Lecturesというコースで使用言語は基本的に英語、読み物などは日本語。

このコースの学生さんたちはほとんど大学1年生。

みんな2年生の時に英語圏に留学するそうです。

で、なんとそのコースの初日の課題はこの「しんちゃんの教師物語」。

エッセーの中から5つ読んでしんちゃんに質問を書いて提出するというもの。

このエッセーがこんな形で役に立つとは!!!

他にも日本語教育のクラスも訪問したのですが、そこでも同じような課題が出されていました。

どちらの学生さんからの質問も興味深く、エッセーとして自分の体験を残していてよかった〜

とほんとに思いました!

トガルに感謝!!!


実はしんちゃん、この異文化コミュニケーション能力についてのクラスを教えるまで、

科目としては日本語のクラス以外は教えたことがありませんでした。(わくわく)

その上、しんちゃんは日本の大学生に教えたこともありません。(わくわく)

クラスに何人いるのか、何年生なのかそれを蓋を開けるまでわかりませんでした。(わくわく)


実際に授業に行ってみると、16人の学生が待っていました!

で、困ったのはしんちゃんをなんと呼んでもらうかということ⋯

しんちゃんはアメリカでは日本語を教えているので、

学生たちは通常しんちゃんを佐藤先生と呼びます。

初級の学生でも初日から⋯

この異文化コミュニケーション能力のクラスで使う言語は主に英語、

でもProfessor Satoはなんだか偉い先生みたいでフォーマルすぎるし、

かといってShinjiは何か父親にでも呼ばれているような気になってちょっと…

なので、学生たちにはそれ以外ならなんでもいいから考えて〜というと以下の候補が…



Mr.は性別特定なので、ちょっと…という意見も出て結局、しんさんかしんしんに!

初日の授業の最後に" Bye bye, Shin Shin. "と言われ

だれのことか一瞬わかりませんでした(汗)。

このクラスでは、違う(異)とは?どうして違うと思ったか?

具体的な自分の経験を振り返っていくだけでなく、文化の境界線はどこで引くのか?

文化が個人単位にまで小さくなるなら、

全てのコミュニケーションは異文化コミュニケーションということになり、

異文化コミュニケーションではないコミュニケーションは存在しないのではないか?

能力とはどこに存在し、だれがどう評価できるのか?

などの問いを何度も何度も形を変えて考えていっています。


授業中もAIと翻訳機使用を全面推奨し、

難しい概念などは英語だけでなく日本語でも

どんどん授業中に検索、翻訳機を使うことを推奨しています。

そこでわからない言葉が出てきたら自分のわかることばになるまで調べたり、

クラスメートに聞いたり…

留学を控えていることもあるのか、その意欲にはしんちゃんも圧倒されるほど!

難しかったら日本語でもいいよと言ってもがんばって英語でチャレンジする学生が多いです。


正直ティーンエイジャーの日本の学生とうまくコミュニケーションできるのか、

クラスを教える前は、しんちゃんはちょっと心配だったのですが、相手は人間。

授業が始まって学生の顔を見た途端そんな不安は吹き飛んでしまいました。

アメリカの大学の学生と変わらずみんないい顔して授業を受けてくれていて

(時には疲れた顔も!)

しんちゃんはこの1週間で学生からものすごくエネルギーをもらうことができました。


しんちゃんは日本の学生はあまり手をあげて意見を言わない

というようなことを聞いていたのですが、なんのなんの。

みんなどんどん手をあげて発言してくれるだけでなく、

ディスカッションでもいろいろ意見を言ってくれています。

ディスカッションのほとんどの問いが正解のない問いばかりで、

話している内容を聞いているとしんちゃんとは違う

「へ〜、そういう考え方も確かにあるな」というような意見もあって本当におもしろいです。

(学生の承諾を得ていないので、具体的な内容を書くのは控えますが…)


最後のプロジェクトでは、習ったことを形にしてSpotifyでポッドキャストを公開予定です。

乞うご期待!

(編集後記)

この記事を書いている間にあっという間にこの集中講義は終わり、

学会に出席するため京都に移動中の新幹線でこの原稿を完成させました!

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