しんちゃんの教師物語(17)
アメリカで日本語のティーチングアシスタント(TA)をしていると
ドリルという授業を担当することが多いのですが、
しんちゃんはこのドリルという言葉を聞いて最初かなりびっくりしたことを覚えています。
何か工事現場のドリルのようなものが頭の頭蓋骨をガガガガッと削って 何かを中に入れているというか…
そんなイメージです。
頭の中に何をドリルで削って入れていくのでしょうか?
(そういえば、小学校の頃漢字ドリルとか計算ドリルとかもありましたね。その時はそう思わなかったなあ。
しんちゃんは漢字ドリルは大好きで、計算ドリルは大嫌いでした。)
そのドリルの授業で、しんちゃんは分刻みの教案を作り、
それに基づいて授業を教えていたこともありました。
どの活動にどの程度時間をかけるのか、
チームティーチングだったので他の先生方とかなり話した記憶があります。
(授業準備に一緒に教えている先生方と話すことはいいですね。
言語観、言語学習観な どのお互いの価値観がよくわかります)
他にも授業中に学生がぼーっとしないように、
ランダムに学生を当てる、文法のメカドリル(編注:mechanical drill=機械的なドリル)、
ディスカッションでも皆に同じだけ練習や発言の機会を与えるなど、テクニックについても話すことがあり、
しんちゃんも授業中にランダムに学生を当てるということをごく当たり前のようにしていました。
ところが、ある年コース終了後の学生評価を見ていると2〜3人の学生から
「いつ当たるかわからないとドキドキして授業に集中できない」といったコメントがありました。
このコメントにしんちゃんはもっともだと思いました。
しんちゃんは授業中には適度な緊張感が必要だと思っていたのですが、
適度な緊張感というのは人によって異なります。
(その後いろんなやり方をしてみましたが、最近では、答えたい学生が答える以外に、席の順番に当て、
学生には気分が乗らない時、わからない時、自信がないときはパスしてもいいというふうにしています。
緊張しやすい学生はもうすぐ当たると順番を数えドキドキしているようですが、
突然ではないので心の準備はできるようです。)
それから、授業中にぼーっとしている時間についても考えるようになりました。
学生は日本語の授業だけをとっているわけではありませんし、疲れている日もあるでしょう。
自分も学会などに出てもぼーっとしていることもあります。
そんな中で効率とは何かということについてもよく考えるようになりました。
効率がいいことはいつもいいことなのでしょうか。
無駄なことの意味は?無駄 なことって本当に無駄なんだろうか?
印象に残っている、多くを学んだ授業は効率がいい授業だったんだろうか…
しんちゃんはそんなことも考えていました。
皆に同じだけ発言と練習の機会を与えるということに関しても色々疑問を持つようになりました。
平等とは何か、授業中にあたる回数が同じであれば平等なのか?
発言しない自由というのを尊重し、授業中には話したい学生だけが話し、
教員は学生を当ててはいけないという大学もあるということを聞いたことがあります。
ただ、実際授業の様子を見ているとうまく言いたい時に言えない、
言いたそうにしている学生がいることも事実です。
少しシャイな学生の方をポンと押してあげることも必要だと思うのですが、
どの程度の押し方が適度なのかということは、これまた人によって異なります。
教師が平等に扱おうとしても、学生が平等に扱われていると感じているとは限りませんし、うーん難しい。
アメリカでは日本語の授業はよくレクチャー(文法説明の講義)とドリル、
レクチャーと応用練習などと分けられ、
TAがドリルや応用練習を担当することが多いのですが、
この応用練習という言葉も考えてみると色々不思議です。
基礎や基本があって応用していくという認識なんだと思いますが、
言語というのは文法のような規則があって人々はそれに当てはめて言語を使用しているのでしょうか?
言語を使用している人は
(言 語学者、言語教育者、あるいは、初級の授業を取っている外国語学習者を除いて)
文法を意識して言語を使用しているわけではないでしょう。
アメリカで日本語を教えている友人が日本の実家に帰ってテレビを見ていた際
「あの使い方は違う」「その使い方は正しくない」などとつぶやいていたら、
家の人に「違うとか変だとかぶつぶつ言ってるあなたの方がおかしいんじゃないの。
そんなことを毎回ぶつぶつ言われたら、
テレビが楽しめないからいちいちうるさいこと言わないでちょうだい」
と言われたというエピソードをしんちゃんが聞いたことは一度や二度ではありません。
正しい使い方が大切なのか、楽しむことが大切なのか?
人々が言語を使用する中でその規則を「体系的に 」まとめたものが
文法として記述されているのだと思いますが、
正しいのはどちらなのか?普段使われている言語なのか、文法のような規則なのか?
もし、文法のような規則があってそれが正しく、その規則に従って人々が言語を使用しているとしたら、
規則から外れた使用法は誤りとして認識されるでしょう。
でも、実際の言語使用には誤りではないが、規則には当てはまらない例外の多いこと!
そして、規則を見つけ出すことが難しいものもたくさんあります。
例えば、前回も取り上げた一人称「ぼく」は教科書には normally used by a maleと書いてあるのですが、
学生たちはいろいろなところからそうではない使用法を持ってきてクラスで「披露」してくれます。
ほかにどんな人称代名詞を知っているか、
それはどういうシーンでどういうキャラクターによって使われていたのか、
という話になると必ずと言っていいほどクラスは大盛り上がり!
「拙者」「キサマ」「おまえ」などの言葉も出てきて、
実際に使われている言語への興味関心でクラス中が湧き溢れます。
日常会話で拙者を使う人は今はいないと思いますが(いたらごめんなさい!)、
言語の使用法が変化していくことはどう説明すればいいのでしょうか。
誤りと創造的な使い方の境界線はどこにあるのでしょうか?
ある使用法が誤りであるとか創造的な使い方であると決めることができるのはだれなのでしょうか?
しんちゃんは大学院で勉強する中でどんどんこういう問いを考えていくようになって、
評価という行為とそれが与える影響に興味を持つようになります。
その頃、しんちゃんはコロンビア大学のティーチャーズカレッジで教育人類学を勉強していて、
頭は大学院で勉強したことで飽和していました
(この教師物語時系列ではなくて思いつくままに書いていますね。
教育人類学ってなんぞや?その話はまた別の機会に….)
もちろん、時には国家の言語政策の一環で学校教育やメディアを通して
半ば強制的に変更させられる場合もあります。
しんちゃんがよく覚えているのは「必」の書き順です。
子供の時にとっても変な書き順だなと思ったことが記憶にあるのですが、
日本語を教えるようになって改めて調べてみると書き順が変わっている!
しんちゃんが大学の頃にはメディアでカタカナ語があまりにも多く使われすぎているので
(確か、イニシアチブとかコンセンサスとかそういう言葉だったと思います)
和語や漢語に変えるといったような政策がとられていたことも記憶にあります。
表記や語彙だけでなく、標準語普及のために学校で方言が禁止されたり、
植民地においてはある特定の言語が使用禁止なったりとかなり極端な例があるのも事実です。
このように政府主導で強制的に変更が行われる場合だけでなく、
言葉とその使用法は「自然と」変化もしています。
しんちゃんの教師物語(14)でも触れた村上春 樹の小確幸という造語は
今では東アジアではかなり普及しているようですし、
ら抜き言葉や謙譲語があまり使われなくなったり、流行語のように生まれなくなっていくもの、
あるグループや世代でしか使われないもの、リバイバルでまた現れてく言葉や表現など色々あるでしょう。
しんちゃんは新しい言葉や使い方が生まれそれが広まったり広まらなかったりするのは言語が生き物だから!と考えています。
そして、言語使用で以前からしんちゃんがおもしろいと思っているのは待遇表現です。
どういう使い方が正しいのか。自信を持って使える人はどのくらいいるのか。
なぜこんなに敬語に関する講座やマナーブックが多いのか!
営業マンだったしんちゃんは今や敬語や待遇表現をちがったまなざしで見るようになっています。
(編集後記)
28年もアメリカに住んでいると日本帰国のたびに、どんな言葉がカタカナ語で使われていて、
どんな言葉が和語や漢語で使われているのか、よくわからなくなります(インターネットがあるのに!)。
ずいぶん前に同僚の先生で「コンピュータの記憶が…」と言われた方がいて、
しんちゃんはよくわからなかったのですが、
どうやらそれは「コンピュータのメモリー」のことだったようです。😳