しんちゃんの教師物語(16)
今日は名前とアイデンティティについて!
これが奥深い、気にする人はとことん気にするし、気にしない人は気にしない。
自分がどう呼ばれるかは自分で決められるようでそうでもなく、いつもだれかに決められるわけでもない、
名前とは不思議なものですね〜。
しんちゃんが最初に名前に興味を持つようになったのは、
アメリカに留学し、韓国出身の学生(台湾系や韓国系アメリカ人ではありません)が
「自分の名前はキム・ソヨン(もちろん仮名、ネットで調べたらこれが今韓国で一番多い名前の一つらしいです)だけど
スーザンって呼んで」と自己紹介で言われた時でした。
「なんでスーザンなの?」と聞くと、昔韓国の高校時代の英語のクラスで先生がこの名前をつけてくれたとのこと。
なんでも先生が名前が覚えられないとか、発音しにくいとか、英語圏に行ったらこの方が便利だからとか理由だとか…。
その時のしんちゃんの反応は正直に言えば、複雑なものでした。
先生が言いにくいからってそれはないだろうという思いと、
自分はある日突然スーザン(もしくは、ジョン)になれない!という強い抵抗も感じました。
名前に関するエピソードは尽きません。
コロンビア大学時代、ハーレム近くの病院に通っていたのですが、
ある日窓口で「シンハイ・セイトウ」と大声でだれか呼んでる人がいました。
3回呼ばれてハッと自分のことではないかと気づきました。
結婚して名前が変わる(名前を変える?)人が新しい名前に慣れるまでには時間がかかると聞いたことがありますが、
こんな感じなんでしょうか。
名前の漢字もおもしろいです。
渡邉さん、山﨑さんなど。書くときに旧字を使っても新しい漢字(渡辺、山崎)でもいいよ〜と言ってくれる人もいれば、
それは嫌だという人、いろいろいます。
そういえば、しんちゃんの名前は「慎司」でおじいちゃんがつけてくれたのですが、
その時に「しんじ」の「しん」は旧字体の「愼」ではなく「慎」を使うようにと、
今でも残っているおじいちゃんが父に宛てて書いた手紙の中に書いてあります。
おじいちゃんは画数を数え運勢も調べてくれたようなのです。
そういえば、みなさん、スタバネームって知ってますか?スタバで注文する時に使う名前です。
しんちゃんの名前が紙のカップにShinjiと正しい名前のスペルで書かれ、
きちんと名前を正しく発音し呼んでくれる可能性は5回に1回ぐらいです。
しんちゃんの観察だとスタバの店員さんは大きく3つぐらいのタイプに分かれます。
一つ目はきちんと英語のスペルを聞いてくれて、自分が発音できるまで何度も発 音に挑戦してくれるタイプ。
これは非常に好感が持てます。(でも、丁寧なので列は長くなっちゃう傾向に)
二つ目は適当に聞いて適当に発音し、適当に名前を書くタイプ。
このタイプの人が書く名前はshingi, cinziとかいろいろです。
これで困るのは、注文を取る人とコーヒーを出す人が違うので、
コーヒーを出す人がどう名前を発音したら良いのかわからなくなることもしばしば。
そして、三つ目のタイプは名前を聞いた途端、スペルを知ろうとも発音しようともしないタイプ。
これはものすごく自分を否定されたような気分になります。
日本語のクラスでも名前に関するエピソードは数えきれないほど!
ある年、ポンとパンとペンの中間音の名前を持つ中国出身の大学院生がいました。
しんちゃんは「日本語の文字がないからポンとパンとペンのどれがいいですか?」とその学生に聞いたのですが、
かたくなに自分の名前の発音の通りに発音してほしいと…でもその発音に相当するカタカナがないのです。
しばらく、しんちゃんはできるだけ彼の中国語の名前の発音に近い発音で呼ぶように心がけ、
他の学生はポンさんとかパンさんとかペンさんとか皆勝手に呼んでいました。
結局いろんな名前が飛び交いだれを指しているのかわからなくなって、その学生は大学結局どれかを選ぶことに…
院生だったのでペン(筆)がいいというので、ある日からペンさんになりました。
他にもハンバーガーチェーン店のマクドナルドと同じカタカナは嫌だということでMcDonaldさんがミクドナルド、
マイケルは自分の名前の発音に近くないからということでMichaelがマイコーに、Liuさんがリョーさんになるのですが、
いろんな人からマクドナルド、マイケル、リューと呼ばれているうちに(面倒になって?)
結局マクドナルド、マイケル、リューになってしまうことが多いようです。
(特に日本に行くと、名前が変わって帰ってくる学生が多いです)
人名じゃありませんが、国や地域の名前のエピソードもあります。
ある時しんちゃんのクラスにルーマニア出身の学生がいたのですが、
その学生が自分の国Romaniaはカタカナでどう書くのか聞いてきました。
「ルーマニア」だよと教えると、ではイタリアのRomaはどう書くのかと聞いてきます。
「ローマ」と書くのだと言うと、その学生はものすごく変な顔をしています。
「ルーマニアとはローマ人の国という意味だから、
ルーマではなくローマを残してローマニアでないとおかしい!」というのです。
しんちゃんはそれも一理あると思い、「今「ルーマニア」と書いているけど
「ローマニア」の方がいいという人がたくさんいればいつか「ローマニア」になるかもしれないね」と言うと、
その学生は「がんばってローマニアにします!」と…。(でも、まだローマニアになってませんね(笑))
クラスにGeorgia出身の学生がいたときも同じようにカタカナではどう書くのか聞かれ、「グルジア」だと答えました。
「ジョージア」だとアメリカのジョージア州と紛らわしいのかもねなどと話していたのですが、
その学生を教えている最中にGeorgia大使館から日本に正式にお願いがあり、
あっという間に「グルジア」から「ジョージア」に正式名称?が変わってしまいました。
だれが どう呼ばれたいのか、自分はだれなのか、それはだれが決めることができるのか、
それは本当におもしろい問いだと思います。
今や人称代名詞(he/she)は言語教育ではホットなトピックでもあり、新しい使い方も生まれています。
そして、日本語の呼称(僕、俺、私など)はしんちゃんのクラスの日本語の学生はいつも興味津々です。
何が正しくて、何が正しくないのか、自分を表すのにふさわしいものはどれなのか、相手はそれを認めてくれるのか。
認められないと使えないのか…。
その上、しんちゃんはこの歳(どの歳!?)になっても自分がだれなのかよくわからないこともあります。
(編集後記)
しんちゃんは生まれてこの方、「俺」という呼称を一度も使ったことがありません。
なんだか自分じゃない気がするというか、小っ恥ずかしくて使えないというか…自分でも不思議です。