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​しんちゃんの教師物語(14)

前回しんちゃんが流暢さについて考えていることを書きましたが、今回は書くことについて。

しんちゃんはTAとして教えている間、いろいろ疑問に思っていたことがありますが、

その中でも作文の宿題に関しては本当にたくさん!

日本語初級クラスでは、作文の宿題の採点、コメントはTAの担当だったのですが

(学生が何について書いていたのかは覚えていませんが、おそらく感謝祭の休みとかそんなトピックだったと思います)

せっかく学生が一生懸命書いてきているのだからと、学生の一人一人に文法や語彙の訂正だけでなく、

内容についてもコメントし、文通のようにそれぞれの作文にとても長いコメントを返していたことがありました。

その当時しんちゃんの上司のK先生は「一人一人丁寧に内容にまでコメントしてすごいね!」と褒めてくださったことが

強く印象に残っています。

でも、しんちゃんは一生懸命書いているのだからそれに誠心誠意を込めて対応するのは当たり前なんじゃないだろうかと

そのコメントを不思議に感じていました。

その後、いろいろなところで教えるようになって作文課題でしんちゃんがいつも不思議に思うことは

(実は話す課題でも同じですが)その課題は、日本語を練習するという目的以外に、

一体だれに何のために書いているのかということです。

休みにあったことを書きましょう、社会問題についての意見を書きましょうなど、

なぜそれについて(だれに向けて)書かなければならないのか、もう少し明確な相手や提出する場など、

設定によって、作文の書き方やスタイルなどは全く異なってくると思います。

また、目的が比較的はっきりしているようなホストファミリーに手紙を書きましょうなどの課題でも

実際にその手紙をだれかに送ることは稀です。

練習だけで本番がなくてもいいかとは思うのですが、何が練習で何が本番なのかという境界も曖昧ですよね。

ただ、あまりにも「本番」が少なすぎるのでは?といつも感じています。

本番のコミュニケーションというのは練習とは違いいつも緊張の連続だからです。

ある時に提携校の学生に自己紹介のメールを書くという課題を話したとき(中級レベルのクラスでした)、

その日の授業は騒然としていました。

しんちゃんは、これまでに何度も自己紹介の手紙をホストファミリーに書くような練習はしているから大丈夫だねと

学生に確認していると、学生は全員びっくりしたような顔をして首を横に振っています。

しんちゃんがどうしてみんなそんなにびっくりしたような顔をしているのかと聞くと

「先生、あれは宿題で、宿題はよく書けていなかったら、成績が悪くなるだけだけど、

この提携校の学生にメールを書くという宿題は変なことをしたら提携校の学生との人間関係が悪くなるから、

宿題のようにはいきません」と。

しんちゃんがじゃあ例えば宿題とは何が違うの?と聞き返すと、「全部です!」という回答。

その後、メールを書くときに名前はどうやって書いたらいいのか、苗字だけなのかフルネームなのか、

それとも、下の名前だけを使うのか、敬称はいるのか、いらないのか、敬称がいるなら〜様なのか〜さんなのか…と

質問の嵐になり授業はあっという間に終わってしまいました。

今でもあの嵐のような授業は記憶に残っています。

そして、その時にしんちゃんは強く感じました。

当たり前のことだけど、練習と本番はこんなに違うんだと…

誤用訂正に関しても数え切れないほどのエピソードがあります。

例えば、オフィスアワーに来た学生と雑談になった時に、

ある(そんなに「できない」)学生が前回の作文で冗談を言おうとしたんですけど訂正されてしまったと

苦笑いを浮かべて話してきたことがありました。

その時に学生が作文を持っていたので、一緒に見返してみると、確かに冗談と取ることができるものでした。

しんちゃんは「ああ、ごめんね。冗談だとは思わなかった」と詫びましたが、

果たしてこれが学生が書いた作文ではなかったとしたら、

あるいは、もっと「よくできる」学生の書いてきた作文だったとしたら、しんちゃんはどう対応していたでしょうか。

このような苦い経験は本当にたくさんあり、

そのたびにしんちゃんはある人の言語を訂正するという行為がいかにおこがましいことであるのか、

それについて常に謙虚であるように、肝に銘じるようにしています。

そんなことからもしんちゃんはだんだん評価という行為に興味を持つようになり、

後に『アセスメントと日本語教育―新しい評価の理論と実践―』(2010)という本を編集することにもなります。

そして、評価という行為の話をある学会のフォーラムでした時に

(確かマドリッドのコンプルテンセ大学での学会でだったと思います。

あの時はお弁当が来るのが遅れて、学会主催者の方は大変だったでしょうね…全然関係ない話ですが…)、

村上春樹の造語「小確幸」が使われているエッセーの一節を見せ、どう思いますか?と印象などを伺っていました。

その時にいらした何人かの先生が、これは中国語話者の書いたものなんじゃないですか?

「小確幸」なんて言葉は日本語にはないし何か中国語みたいですよね。

私だったら赤入れますというようなことをおっしゃっていました。

そのすぐ後で、実はこれは村上春樹が書いた作品なんですとお話しすると

コメントされた先生方はものすごく恐縮されて小さくなっていらっしゃいました。

評価はだれの作品をだれがどのような場で何を目的にするかによって変わることが多いような気がします。

ピカソの絵と子供の絵、それが美術館にあるのとそこに置いてあるスケッチブックに書いてあるのでは

評価が異なる場合も多いのではないでしょうか?

考えてみれば、しんちゃんは日本の学校で作文の指導を受けた記憶がありません。

しんちゃんは大学の学部は日本だったので、アメリカの大学院を目指していた時には必死に英作文を勉強した時期がありました。その時に英語の作文には比較的明確なルールがあることに驚きました。

考えてみれば、日本語の作文の句点の打ち方すら習った記憶がなく、

あるとき書くことにものすごく興味を持って本田勝一の『日本語の作文技術』をはじめ

彼の文庫本を読み漁った時期がありました。

(あー、ここで今回の教師物語の句点は大丈夫かなーと心配に…(笑))

もちろん小中学校ではあのかの有名な夏休みの読書感想文の宿題はありましたが

(今は結局親御さんが書いたりすることも多いのでなくなりつつあるみたいですね。これからはAIかな?)、

あの感想文は一体だれに何のために書いていたんでしょうか。

もちろん、当時のしんちゃんはそんなことは考えもせず、夏休みも終わる頃、何を書いて良いのか分からず途方に暮れ、

原稿用紙と睨めっこしながら、ただただ辛かった思い出だけが残っています。

そういえば、その感想文のフィードバックをもらった記憶がありませんね。

考えてみると書くことが好きになってきたのは、本を編集するようになってからかもしれません。

自分のメッセージを伝えるために、学会誌はお作法が多すぎてどうしてもしんちゃんのような人間はそれに縛られてしまいすぎ、思うように書くことができないのです。

ただ、本であれば自由がききますし、自分の言いたいメッセージはいつも明確にあるので、

それをどうやって伝えていくのかを考えることは本当に本当に楽しいです!

まあ、しんちゃんは個人的にはその場にオーディエンスがいるトークの方が、書くことよりは向いていると思うんですが、

それは相手の様子を見ながら自分の言ったことを確認、修正できるからなのだと思います。

皆さんは、何か自分の伝えたいメッセージを表現することはお好きですか?

そのとき、書くのと話すのとどちらの方が向いていると思われますか?

(追記)

しんちゃんの教師物語を書くのは本当に楽しいです。

読んでくださる方の顔もなんとなく思い浮かびますし、時には一人でほくそ笑みながら書いてます。(不気味?)

個人的なことを言えば同じ世代の方だけでなく、若い世代の方達に読んでもらいたいな〜と思っています!

今度どこかでお会いすることがあったら、読んでますよ〜と声をおかけください。

それがいちばんの励みです!

だれも読んでくれない作文・エッセー・論文ってなんかやっぱり寂しいです…

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