しんちゃんの教師物語(13)
しんちゃんはマサチューセッツ州立大学で修士課程の1年目の終わりごろ、
修士論文をどんなテーマで書こうかと考えていました。
日本での経験(日系アメリカ人のノアについて:教師物語(5))や
アメリカに留学してからの経験(中国系アメリカ人が自分のことを中国人ということ:教師物語(12))で、
見かけ(特に「人種」)が人の様々な判断にどのように影響を与えるかに関心を持つようになったので、
修士論文ではそんなテーマをぜひ扱ってみたい!と思っていました。
その時の指導教官のH先生は好きなことをしたらいいと言ってくださったので、
しんちゃんは修士論文の研究のためにある実験を試みることに…
しんちゃんがした実験は、同じレベルの日本語会話の録音を集め、
あるグループにはヨーロッパ系(いわゆる白人)の写真を、あるグループにはアジア系の学生の写真を話者として見せ、
人々が彼らをどう判断するかをスケールで評価してもらうというもの。
とはいってもしんちゃんの専門はアジア研究で、どのようなスケールを作ったら良いのか分からず途方に暮れ、
社会心理学の先生を訪ねることに。
いろいろ調べ、F先生にメールをし訪ねて行きました。
F先生はしんちゃんのしようとしている研究に好感を示してくださり、どうやってスケールを作ったら良いのか、
いろいろアドバイスをくださいました。
その結果、言語能力と性格をどう判断するかをみることになりました
(ずっと後に、F先生は世界的に有名な社会心理学の先生で、
その後、しんちゃんの現勤務校で仕事をしていることがわかりびっくり!)
録音した会話と写真を持ってしんちゃんは母校を訪ねました。
事前に高校の英語の先生に手紙で依頼をし、何度かやり取りした後、実験をさせていただきました。
(10年ほど前に卒業した母校には、もうしんちゃんが知っている先 生はほとんどいませんでしたが、
運よくその英語のT先生はいらっしゃいました。)
物静かな先生でしたが、時々冗談を言うような先生でした。
T先生の授業の時間を使わせていただき実験を行ったのですが、
クラスの学生に「私が(しんちゃんに英語を)教えました」と何度も強調し
(それも笑いながら)おっしゃっていたのが印象的でした。
その後、完成した修士論文をお送りしたのですが、丁寧にお返事をいただいたことを覚えています。
この実験の結果は、見かけは、言語能力の判断には影響しないが、性格には影響するというものでした。
しかし、この修士論文の実験と分析でしんちゃんはいろいろ考えさせられることがありました。
まず、ある人の言語能力や性格のスケールの点の平均点を出すという作業。
ある評価者の4点と別の評価者の2点を足して平均を出すことの意味は何なのかということです。
つまり、評価者皆にとって4点は同じ意味を持つのでしょうか?「よくわかんないから、みんな6にしちゃおう。
でも、まあ、一つぐらいは5にしておこうとか」いうようなことを考えることはありませんか?
(もちろん人によって回答の時に考えることは違うと思います)
しかし、それは実際にその人と会ってコミュニケーションして行う評価と同じなのでしょうか。
文脈もなく全く知らない人の2−3分の会話を突然聞かされて、その人の言語能力や性格を評価する、それは何を見ているのか。この論文を書いてから、このような調査の意義は十分にあると感じながら、
自分には向かない研究方法だなあとしんちゃんは感じたのです。
また、ある人 が話している言葉が上手であるかどうかは何で判断できるものなのでしょうか?
流暢さとは、早く話すことなのでしょうか。
例えば、人生の意味は?というようなテーマで話をしている時にベラベラとまくしたてるように話した場合、
それは流暢であると言えるのでしょうか?
いいよどみのない話し方が流暢さなのでしょうか?
味のある話し方、その人なりの話し方などもあります。
では、流暢さとは一体なんなのでしょう?
ある時、学生が流暢に話すとはどういうことかよくわからないので先生に聞きたいと研究室を訪ねてきたことがあります。
しんちゃんはその学生とずいぶん話し込みました。
話すスピードでも間の取り方でもないとしたら流暢さとは何なのか?
結局しんちゃんもよくわか らなくなってしまいました。
でも、その学生は優しかったので、「先生大丈夫です。何となくわかりました」と言って帰っていきました。
それ以来しんちゃんの中でもこの問いに対する明確な回答はありませんが、
最近はこのような問いの回答をみんなで考え、その共通点と違いを認識することの方が重要なのではないかと思っています。
つまり、みんなのビリーフや価値観が違うことを認識し、必要があればその場その場で丁寧にすり合わせをし、
その場の評価基準を決めていくことです。
TAとして教えながら他にも感じていたことがありました。
それはアジア系の学生は文法と語彙をマスターすると上手に話せるようになるのに、
そうでないバックグラウンドの学生の場合は、それだけでは日本語が不自然であるということです。
その時にしんちゃんが出した結論は「ああ、やっぱり文化も教えないとダメなんだ」というものでした。
そして、その後、日本人のコミュニケーションスタイルのような本を貪るように読みはじめたのです。
そのような本を読みながら、しんちゃんはどんどん知らない日本文化を発見し、日本文化について学習していくようになります。日本語を勉強している学生に聞かれても困らないように…
でも、しんちゃんはどうしてアジア系のバックグラウンドを持たない学生の日本語が不自然である、
文化も教えないとダメなんだと思ったのでしょうか。
(しんちゃんは少し後にこの問題に向き合うことになり、どんどん「泥沼」にハマっていくことになります。)
(執筆後記)当時色々な研究を授業で読んでいく中で、「えっ?」と思うこともよくありました。例えば、文化と思考のようなことを授業で勉強していた時に、英語の思考は直線的なのに対し、オリエンタルな思考の仕方は渦巻のようだと読んで(こちらの図を参照)「何じゃそれ?」と感じたことを今でも覚えています。