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​しんちゃんの教師物語(12)

教師物語なのにまだ教師にもなっていないしんちゃん。

まだまだ教師のしんちゃんに影響を与えている経験はたくさんあるのですが、

今回はそれをすっ飛ばして、渡米し、TAとして教えることになった時の話をしたいと思います(今回はそんな気分〜)。

しんちゃんはマサチューセッツ州立大学アマース校アジア研究学部に入学許可され、1996年に渡米することになりました。

大学院に通いながら、TAとして日本語の授業を教えることで、

授業料(当時200万円ぐらいだったと記憶しています)を免除され、生活できるぐらいのお給料をいただけるのです。

何と素晴らしい!TAとはティーチングアシスタントのことです。

カリキュラムやシラバス、スケジュールなどは作成しないので、アシスタントということだと思うんですが、

このTAは、外国語の授業では、いわゆる文法導入を担当するのではなく、

ドリル(今でもその時でもすごい言葉だなあと思います。何かドリルで頭にガンガンねじ込まれているような…)

と言われている文法練習の授業を一人で受け持つのです。

まずは大学で新人TAのための研修会があったのですが、

小グループでの活動が多く、その中でとにかくしんちゃんは自分の意見を表明するのが難しかった記憶があります。

そのグループワークで一緒になったジョン(仮名)はしんちゃんが四苦八苦してコミュニケーションしているのを見て

本当に優しく接してくれていました。

彼はドイツ語のTAでしたが、自分の話を一生懸命聞こうとしてくれました。

(その後、ひょんなことから彼のドイツ語の授業を取ることになり、そのジョンとは今もまだ友達です)

また、英語が母語でないしんちゃんのようなTAは、英語の面接テストを受けなければならずそれも緊張しました。

部屋での一対一での面接だったのですが、

警察の取り調べ室みたいに鏡のようなガラスの向こうで何人かがしんちゃんの英語力、

特にコミュニケーション能力を見ていたと聞かされました。怖い〜。

そういえば、しんちゃんがアメリカの大学に入学するために受けなければならなかったTOEFLも

その当時はコンピュータではなく紙の試験でした。

とにかく試験監督が厳しく、試験中に部屋の外に出ることは許されませんでした。

つまり、試験中トイレに行くことが許されていなかったのです!

TOEFLが何時間のテストだったかは忘れましたが、

冬の寒い日にトイレにも行けないんだと思うと、それだけでも緊張しました。

(そのTOEFLを作っているETSが今の勤務校の目と鼻のさきほどの距離にあるなんて、何という奇遇!?(でもないか))

しんちゃんの担当した日本語の授業は初級でした。

主任の先生は一つ上の先輩のMさん(今では仲の良い友達です)。

『ようこそ』という教科書で週3日教えていました。

今でも忘れられないのが、初級の最初のあたりに出てくる「〜は〜です」の練習の日です。

その日は「私は〜です。大学生です。日本人です。」という自己紹介の練習でした。

クラスの中には中国系アメリカ人や韓国系アメリカ人がかなりいたのですが、

その学生たちは「中国人です」「韓国人です」と自己紹介をしていました。

しんちゃんは「えっ、中国・韓国から来たの?アメリカ出身だと思ってたけど…」と本人たちに英語で確認をしたのですが、

その学生たちは「アメリカで生まれて育った中国人・韓国人です」と言ったのです。

その時にしんちゃんは

「じゃあ、中国人・韓国人じゃなくて、アメリカ人だね。中国系アメリカ人・韓国系アメリカ人という言葉もあるよ」

と学生を訂正したのです。

この学生たちの言葉遣いが気になっていたしんちゃんは

自分が取っていたある授業(言語とアイデンティティがテーマのような授業だったと思います)のプロジェクトで

「「〜人」とは何か」というテーマについて色々な人にアンケートをしてみることにしました。

しんちゃんは、自己紹介で「〜人です」という場合、

それはパスポートを持っている国籍と同じであるべきだと勝手に思い込んでいました。

そして、他の人もみなそう思っているんだろうと…。

でも、そのアンケート結果は驚くほどバラバラでした。

10人以上の人に聞きましたが、一つとして同じ答えがなかったことを今でも覚えています。

そして、その時に気づいたことは「〜人」という言葉は国籍を表すだけでなく、

その人のアイデンティティを表明する大切な言葉でもあるということ。

その時初めてしんちゃんは学生の言葉を訂正した自分はなんだったんだろうと考え始めるようになります。

アイデンティティといえば、しんちゃんが自分はアジア人だと思うようになったのも、アメリカに来てからです。

自分がどのような人間であるかという認識は、周りの環境で異なってきます。

日本にいた時には自分が日本人であるということについて考えてみたこともありませんでした。

そして、自分の周りの人が日本人であるかどうかということについても…。

アメリカに来てしばらく、自分の周りには日本の「マイノリティ」の人はいなかったなあと思っていたことがありますが、

本当にいなかったのでしょうか。

自分が気づいていないだけで、実はたくさんいたのかもしれません。

そんなことを考えながら、自分は目の前にいる学生のいかほどがわかっているのだろうかといつも感じています。

アメリカに来て15年ぐらい経った頃、

とある学会で先輩の先生に「佐藤さんも渡米15年以上になるんなら、もう日系1世だね」と言われ、

「えっ」と最初に思ったものの「まあ、確かに長い期間だし、そうなのかも」と思い始め、

今では「自分は移民なんだ」というふうに思うようになっています。

自分がどのような人間であるかということは自分一人で決められるわけでもなく、

相手によって完全に決められるわけでもない。

不思議なものですね。

読者の皆さんも似たようなエピソード、おありですか?

(執筆後記)

アイデンティティといえば、当時スカイプで日本にいる父と自分が勉強していることについて話していて、

この言葉を使った時に、辞書に「認証」とあるけど、お前が何のことを言っているのかわからないと言われました。

また、同じ頃、しんちゃんは父親に進学の相談をしたのですが、

「ドクターはどのデパートメントにアプライしようか迷ってるけど」と言ったら、

父親に「お前は将来医者になるのかデパートに就職するのか?アプライって「応用」って辞書に書いてあるけど...」

と理系の専攻だった父に言われ、会話が成り立ちませんでした!

「博士課程はどの学部に応募しようか迷っている」と言うべきだったんですね〜。

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