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ちょっといいですか?

第一回
「わきまえない女」

オーリ リチャ

 

「僕は先生の目が大きいからちょっと怖い。だから最初の授業はかわいく振る舞った方がよい。」

「え、それどういう意味ですか。」

「僕は先生みたいな外人さんと話したことがないから、最初は怖いと思うんですよ。でも、慣れるとそうでもないから先生は損をしていると思います。他にもそう思っている人はいると思います。だから、可愛いコスプレみたいな服を着るとか、雰囲気を少し可愛くするだけで違うと思います。」

 

 これは、私が担当する授業の改善点を聞いた時のある男子学生とのやりとりだ。特に、女性の商品化についての議題が終わった後のやりとりだったのでかなり驚いたのを覚えている。「ファッションセンスがいい」とか「スタイルがいい」とかランダムに言われることはあったが、具体的な改善策として授業内容とは関係のないコスプレを提案されたのは初めてだった。「怖い」から「かわいく」した方が良いというとても単純な考え方もそうだが、それが女性の商品化について90分間の授業であらゆる観点から議論をした後での発言だったことがなんとも理解し難いことだった。授業の時間はなんだったのだろうか。

 しかし、このような苦しみを味わうのは教室での場面に限ったことではない。先日、某会議で、英語の男性教員(白人)が、授業の場では、教師はオールマイティーな立場にいて、学生の学びや発言をコントロールしなければ授業は崩壊するという原始的なモノローグを長々と熱弁しおわった後、異論があれば挙手してどうぞと求めた。痺れを切らした私は、授業は、教師・学生の双方にとって学びの場である必要があり、そのため、教師の存在は空気に近い形が理想だと伝え、student-oriented classroomで「自由な学び」を促進するために、教師は「コントロール」を最小限に留めるために努力をすべきだ、と反論した。そしたら、その男性教員から議論の内容と全く関係のないひとことを英語で言われた。

 

“Hey, don’t get angry”(まあ、まあ、怒らないで。)

“I’m not angry, I’m just responding to what you said”(怒ってないよ、見解を述べているだけ。)

“Ok, I thought you were angry because you negated everything I said”(あれ、そうだったのか。僕のいうことを全部否定したので怒っているのかなと思った。)

“No, I am not angry at all, I just don’t agree with what you said, that’s all”(私は怒ってはいない。あなたのいうことに共感できないことを伝えただけ。)

というやりとりが続いた。

 

 私にとって、この「怒る」(angry)という言葉もかなり苦しい言葉である。小さいとき、嫌な気持ちをはっきりと伝えると「そんなふうに怒ったりしたらお嫁に行けないよ」と厳格な父に何度も言われたのを覚えている。だが、父自身は気分屋で気に入らないことがあると、周り構わず、母、妹や私をすぐに怒るタイプだった。小さかった私は「怒る」という感情は女性が表してはいけないもので、男性の特権だと子供ながらに理解した。理解はしたが、納得いかなかった。

 成長するにつれて、何かについて怒るというのは女性にとってマイナスなイメージにつながることがある経験を何度もした。The Secret Thoughts of Successful Women(成功する女性の秘密の思考)」の著者であるヴァレリー・ヤング(Ed.D.)は、「怒りは男性ではステータスの証ですが、女性が怒りを見せると能力が低いと見られてしまう」と指摘する。例えば、ミシェル・オバマ大統領夫人は、2008年の大統領選挙で夫の選挙運動をしていたとき、熱心にスピーチをしていると、「怒った黒人女性」と非難された。つまり、怒っているという印象を与えてしまうと威圧的と感じる人がいる。優しくて親しみキャラの方が女性にとっては無難とされているので、ハーバード大学で学んだ弁護士である彼女は、意識的にイメージやスピーチを和らげて「好感度」を高め、政治的な問題に対するスタンスよりも、ファッションや夫への絶え間ないサポートで知られるようになったことは有名な話だ。

 威圧的といえば、つい最近テレビ電話でしゃべった父にも言われたばかりだ。言われるまでの経緯はこうだ。数日前に具合を悪くしてしまった父を病院から医者(女医)が診察に訪ねたという。彼女を見て彼は「いやーあなたのようなお綺麗な方が診察に来てくれるなら誰も薬なんかいらないですね」といったそうだ。その内容を私に自慢げにテレビ電話で話してくれた。それを聞いた私はびっくりするとともにかなしくなった。我慢できなくて彼と次のような会話が続いた。

 

“I don’t think it is a good idea to say something like that to a doctor, especially because she is there to treat you”(それは医者にいうことではないよね?)

“She seemed happy”(いや、彼女は喜んでいたよ。)

“Really? I don’t think so”(そうかな?私はそう思わないよ。)

“Women are happy when they are praised(きれいだと褒められたら女性は喜ぶでしょ。)

“She is a doctor and at work. Your praising her looks trivializes her work(彼女は医者で、仕事の場で容姿を褒めることは彼女がしている仕事を軽視することだ。)

これを聞いて父の声のトーンが厳しくなり、彼はこう反論した。

“You sound like an intimidated feminist. And the way you say it… It’s because of nouveau

feminists like you this world is becoming increasingly colorless(なにその威圧的でフェミニストみたいな言い方?お前のような流行りでフェミニストになった人がいるから世の中がつまらなくなるんだよな。)

 

 はい、でた!フェミニスト。いや、ただのフェミニストではない。威圧的なフェミニストのダブルパンチである。英オックスフォード辞書でフェミニストの定義を調べると、フェミニストとは、全ての性が平等な権利を持つべきだという理由から女性の権利を主張する行為(フェミニズム)を支持する人のことだと書かれている。しかし、この言葉には辞書的な意味以外の裏の意味があることをずいぶん前から実感している。使う人によってその意味が変わってくるし、人(女性)を黙らせるための絶好の単語になってしまっているように思う。

 私の指摘がよっぽど気に入らなかったのか、その後もしばらくフェミニズムについて様々な学者の名前を並べて私より知識が豊富であることアピールし続けたが、私に発言権を与えることは許されなかった。ちなみに、父は大学の教授で学長を務めたこともあり、様々な分野において幅広い知識を持っている人物であることを付け加えておく。

 父との会話は相手の沈黙を強制する露骨な事例なのだが、実際の生活の中での男女のコミュニケーションにおいて、微妙な例はいくらでもある。その典型的なのは、丁寧語を使うことでその言葉が持つ本来の意味を和らげようと試みる例だ。例えば、自分のパートナーのことを「奥様」と呼ぶ人がいる。ことばの教育に携わっている私としては、どうしても「奥さん」とか「奥様」のような言葉の持つ意味に共感ができない。それは、多様な言い方があるのに、あえて「奥様」という女性のアイデンティティを制限するような言葉を選ぶ必要性を理解できないからだ。もしかして、「様」をつけることで「奥」の意味を和らげようとでもしているのかと思ってしまう。例えば、この間SNSで、○○国に行って苦労した人の話に続けて、僕の奥様は「○○国へいってこんなにも苦労をするなら私はついて行かないよ」といってきたというエピソードが書かれた投稿を読んだ。私は、「ついて行かない」というフレーズが気になった。女性は男性について行くことが当然という微妙なニュアンスがそのひとことに含まれているからだ。視点を変えて考えてみるとわかるが、女性が男性について「彼は私について行かないと言った」と書くことは男性に比べると圧倒的に少ないように思う。その理由は述べるまでもない。

 私たちは言葉でできている。毎日のコミュニケーションの中で使用される言葉、その言葉が持つ意味は、私たちの行動や 言動に影響を与える。例えば、私は学生に「怖い」印象を与えてしまうと知ってからずっと悩んできた。なぜなら、教育の場において教師は、自身の持つ権力性について敏感でなければいけないし、学習者と対等な関係を重視しなければいけないと思うからだ。その場において自身が学習者にとって「怖い」存在であることはあってはならないということが一番の悩みだった。授業で使用する言葉や授業内容を多方面から「怖くない」ものにしようと試みたが、それでも「怖い」というラベルがついてくるのだ。なぜそうなってしまうのかという問いへの答えを模索していて、やっと悟ったことがある。それは、例えば、冒頭のやりとりで学生は「僕は先生の目が大きいからちょっと怖い。だから最初の授業はかわいく振る舞った方がよい」と伝えてきたが、それは授業内容とは関係のない容姿のことであり、大学教員としてどうにかできることではないし、「かわいく振る舞ったほうがいい」という要求自体がセクシズムの典型的な事例であるため、むしろこの際セクシズムを授業で扱うテーマの一つに掲げ、再発防止のための議論を重ねた方がもっと有効なのではかと考えた。

 “Don’t get angry” (怒らないで)、威圧的、フェミニストなどと言われた時もなんの疑いもなく私の伝え方に問題があると自身を責めながら言動や行動をもっと女性らしくと「わきまえて」きたが、効果がなかなか現れないため、問題のソースが違うところに存在すると気が付いたのだ。

 端的にいえば、これらの言葉の背後には女性に対する偏見や社会的イデオロギーが存在し、これらの言葉を日常的に使うということは、そのイデオロギーをなんの疑問もなく受け入れ、コミュニケーションを通してそれを強化していることになるということである。例えば、日本社会では「女性らしく」や女性は立場を「わきまえる」というイデオロギーが存在する。これは、女性の言動や行動を制限するための言葉でよく「伝統」と一緒に使われる。伝統とイデオロギーは使い勝手がいいのだ。女性は女性らしくすることや、女性が男性を立て、自分は立場をわきまえるのは日本の伝統だといえば、幅広く抵抗なく受け入れられやすい。一方それらの言葉を受け取る側は、言葉が存在する文脈を無視し、独立した言葉の重荷を背負ってしまうというとんでもない暗くて長いトンネルに入ってしまった感覚を覚える。自分を責めたり、もっと頑張らなければいけないと無理したり、やりたいことを安易に諦めたりすることはよくあることだ。しかし、これは女性だけの問題だろうか。私は、むしろ逆だと思う。つまり、問題を抱えている人がいたら、その問題解決のために一緒に努力するのが我々のやるべきことではないのだろうか。男性優位の社会構造が存在する日本では、男性にとっては、優位な立場にいるのにいちいち使用する言葉が女性に与える影響というものをわざわざ考える暇もなければ必要性もないことだと思うのかもしれない。しかし、これでよいのだろうか。

 この記事を読んでいる人は何らかの形で言葉と関わる仕事をしていると予測できる。だからこそ、言葉の持つ力、それが相手に与える影響について深く考え、自らなるべく会話するもの同士の平等な関係構築を目指し、その成果を学習者に伝えていくことが望ましい。言葉の使用によって生じてしまう不平等は、違う言葉を選別することによって正すことが可能である。言葉の教育に携わっている我々は、まずそこから始めるべきだと思う。

 

最後に
 

この原稿はオンラインマガジン「トガル」が存在しなければ、書かなかったと思う。なぜなら、私が住む日本社会は丸くてやさしい内容を好む傾向があるからだ。私は、丸いからやさしいという原理は必ずしも正しいとは思わない。尖っているからこそのやさしさがあると信じている。比較的辛いけど、そこから学ぶことが多い気がする。トガル編集委員の梶原彩子さんのいうように「トガルとは、なにかを起こせると信じること」であるならば、私もこの原稿を通して、なにかを起こせると信じたい。