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書名:ことばを学ぶとはどういうことか
―外国語学習の本質―

(ちくま書房、2026.3.9)
 
松田真希子
(東京都立大学)

 

 
「『ことばを学ぶとはどういうことか』を書くまで
―「羊」の私が「呪い」で新書を書こうとした理由―」
 

みなさん、こんばんは。今日は、『ことばを学ぶとはどういうことか』(ちくま新書, 2026)について、裏話のようなことをつらつらと書いてみたいと思います。

早速話が脱線しますが、トガルは2019年12月、八王子セミナーハウスの合宿で構想され、2020年の10月に刊行されたことをご存じですか?あら?知らない?
フフフ・・・実は私、何を隠そう「トガル」誕生に立ち会った初代編集長なのです。2020年当時、私は、ある時は編集長、ある時はスナックまきこのママをしていました。「自著を語る」というコーナーは知っていましたが、まさか自分がここにエントリーすることになるとは当時は全く思っていませんでした。しかも新書。だから、こうして自分の本について「トガル」で語ることは、お里帰りのようで、とても誇らしく、かつスナックまきこ番外編のような気持ちになります(今はスナックあきらか)

「柵を飛び越える羊でありたい」

これが「トガル」の発足時のスローガンです。

 

私はトガルというのは柵を飛び越えて家畜(=思考停止状態にあるシステムに囚われた人?)から抜け出せる人のことだと思っているのですが、(反論を承知で言えば)私は「羊」だと思います。

 

まず私は、高校卒業以来ずっと大学という柵の中に守られて生きてきたという点で家畜(社畜?)感が強いです。もし私が大学教員をやめて文筆業やスナックのママになって色々な発信活動をするようになったら柵を飛びこえるひつじになったと思います(ゲンロンの東浩紀さんは個人的にまさにトガル)。ですが私は意気地なしなので、このまま大学教員でいる(もとい、いさせていただく)と思います。

かつ周囲から期待される役割をきちんと果たそうとするところがあり、嫌われることを極端に恐れます。こうあるべきだ、という規範意識も規範的知識も責任感も強いです(血液型はA型笑)

家畜であるばかりか、教員として家畜(?)の世話係もしています。こんな私ですから、日本語教師をしていたときは、当然のように私が蓄えた「規範」を教えこむ側に回りました。(規範的文型教科書の金字塔の)『みんなの日本語』で日本語を教えることが大好きで、得意でもありました(第何課でどの文型が出るか言えるレベル)。学習者がどこでつまずくのか、どうすればうまく学べるのかを考え、「指導」するのも好きでした。私が規範や正しさを振り回して、ダメ出ししまくった結果、自分の日本語(学習能力)に自信が持てなくなったり、学習することが嫌になった学生はたくさんいると思います。そのことを思い出すととても申し訳ないです。

その一方で、学習者としての自分を振り返ると、自分は「教育」や「教師」に対してずっと反感を持っていたように思います。教育によって救われた記憶より、傷ついた記憶の方が多いです。私は教師の覚えの悪い生徒でした。小学校の時は忘れ物も多く、落ち着きがなく、集団行動ができず、(古典的)いじめを受け、登校拒否児でした。いじめられていても先生は私が悪いと助けてくれず、クラス替えで解放されなければ学校に再び行くことはなかったでしょう。中学高校は成績こそ良かったですが、(基本的に生意気な生徒だったので?)先生も扱いにくかったと思われます。平手打ちなど暴力も受けていたので、偉そうな先生が嫌いで、自分は絶対に教師にはなりたくないと思っていました。(今でも学生には「先生」と呼ばないよう頼んでいます)。私は教師になりたくて日本語教師になったわけではなく、海外に行きたくて日本語教師になったクチです。しかし海外で日本語教師として働く機会はないまま、現在に至っています。

 

つまり、こんなに教師が嫌いだったくせに、いざ教師の立場になると、学生の声に寄り添うこともなく、まんまと学生から嫌われる教師をやってしまっていた(る)わけです。情けないことこの上なしです。

 

実は言語教育にもそんなに興味があるわけではありませんでした。ALCEも、入りたくて入ったわけではありません。ALCEに私が関わるようになったのは、2012年頃、金沢で学会を開く際に、会場手配を手伝ったことがきっかけでした。私は言語教育研究もしていますが、研究履歴からすると、どちらかと言えば「言語研究」寄りの人間だと思います。誰のためでもなく、自分の興味だけで動くなら、私はたぶん、ずっとことばの生態を観察し、記述しているでしょう。

 

成り行きで参加したALCEではありますが、なんだかんだ10年以上もALCEの会員を続け、理事にもなっているのは、トガルの編集部の方も含め、多くの刺激的な出会いと交流の楽しさがあったからだと思います。特に大きかったのは、(ALCEがきっかけかどうかは謎ですが)細川英雄先生との交流です。2015年〜2020年頃細川先生からはセミナーなどを通じていろんなことを教えてもらいました。特に印象に残っているのは

 

「教師は正解を手放さなければならない」「初級でも対話的活動はできる」

 

といった内容の発言です。そうした発言は、私が積み上げてきた「良い日本語教師」「良い日本語学習者」の成功と成長モデルを、根底から揺さぶるものでした。以後、私は正解を手放す日本語教育を実践していますし、今は習熟度レベルにこだわりませんし、ことばの教育の可能性を信じています。
 

そうした揺さぶりは、細川先生との出会いだけではありません。同じ頃、大学で留学生と日本人の共修授業を担当していたのですが、とある外部講師から、
 

「松田さんは、人生全部リハーサルですね」

 

と言われたことがありました。その言葉も、自分の中身が空っぽなことを見抜かれたような気がして、とても屈辱的でした。言われた時は「こんなに私は精一杯生きているのに」と腹がたちましたが、落ち着いて考えてみると、そうかもしれないと思いました。私はいつも「本番のない人生」を生きていたのかもしれません。周囲の期待に応え、周囲から浮かないように振る舞い、「自分がしたい生き方」よりは「周りから期待される生き方」をしようとしていました。周りに必要とされる自分であることが生きる喜びであり目的であり、教育現場で学生の役に立つ存在であることにやりがいを感じていました。しかし、自分自身の問題関心、違和感や怒りの表明や交渉には、蓋をしていた気がします。
 

そんな私に強い影響を与えた一人が、作家の温又柔さんでした。私はコロナが流行していた頃、ある研究会のイベントに温さんを招きました。その時から、温さんの作品を愛読するようになりました。
 

私は、ことばの使用の差異が気になるだけでなく、周囲の自分に向かう視線を非常に気にします。自分への攻撃や抑圧に対しても敏感です。でも、私はその抑圧に対する不満を友人に愚痴るだけで、何にも戦いませんでした。できるだけ穏便に、できるだけ敵を作らない生き方をしたいと思っていました。そんな私には、温さんの姿勢は特別に響きました。温さんは、その違和感や抑圧の先にあるものから目を背けず、しっかりと見て、言葉を与え、物語として外へ発信していました。その発信は時に暗く、重く、ざらざらとしていて、当然反論も受けるものです。傷つくこともたくさんあると思います。ですが、流さない、迎合しない、発信して世に問うことを諦めない姿勢に、私は強く揺さぶられました。思っていても何も言わないこと、うちわで愚痴を言うだけで何もしない自分の意気地のなさをなんとかしないと思うようになりました。(正直、今回の本は温さんへのファンレターの側面も強いです。)
 

そして、ある時から思うようになったのです。
 

ことばの実践者であり研究者でもある私だからこそ発信できることがあるのではないか。同業者の共感し合える人たちと、内側だけで議論していてはダメなんじゃないか。本当に届けなければいけない人たち――ことばに苦しんでいる人、ことばで苦しめている人――に向かって、何か発信したほうがいいんじゃないか、と。特に、ことばの教育を無条件で良いものと信じ込んでいる状況、ことばの正解やネイティブ性を暴力的に押し付けている現状について何かしら問題提起したいと思いました。
 

私が発信したかった内容は、実はALCEの中ではそれほど新しい話ではありません。言語教育の商品化や、ネイティブスピーカリズム、トランスランゲージング、脱植民地化といった内容です。でも私は、それを言語教育の「外側」の人たちに届けることは結構大きなチャレンジなのではないかと思いました。さらに、外部に届けるためには、新書のような誰でも手にとる安価なメディアがいいのではないかと思いました。
 

企画書を書き始めると、自分の中から大量の「呪い」がわいて出てきました。「ネイティブの呪い」「レベルの呪い」「正解の呪い」――気づけば15個以上ありました。最初は「呪い100%」の本を書こうとしていました。でも、周囲に相談すると、「呪い」はネガティブで新書に向かないのでは?、もっと実用的な本が喜ばれるのでは?といった反応でした。そんな中「言語学習の呪い」をおもしろがり、新書として出版しても良い、といってくれたのが筑摩書房です。しかしやはりいくつか提案がありました。その一つが「言語学習の呪いの本ではなく、呪いと恵みの本にすること」です。そして折衝の結果、呪いたちは5個に収斂していきました。希望たちも繰り出して、6個になりました。
 

新書を書くのは怖かったです。そもそも私は言語教育学の権威ではありません。応用言語学の権威でもありません。私は、新書というのは「〇〇学研究」の第一人者が一般読者に向けて書くイメージがありました。そんな大それたメディアに自分が書いていいものか、と不安になりました。ですが、中途半端であってもそれなりに専門性はありますし、自分の体験から考えたことを自分なりのことばで書くことには意味があるのではないかと思いました。また、それぞれの分野にはもっとすばらしい本がすでにあることを、本のなかでおすすめする道案内としての本であればいいのではないかと思いました。

 

また私は、規範性の強い日本語教師として、学習者を傷つけてきた過去があります。日本語学習者のノンネイティブ性を治癒すべき病理のように扱い、「ネイティブの呪い」を再生産してきた日本語マジョリティ(加害者)でもある。そんな自分が、何かを偉そうに語る資格があるのか、「お前がいうな」という批判を受けるのではないかということにも悩みました。
 

そんな時にもまた温さんの発信が励みになりました。温さんの作品はマイノリティの声をマジョリティに届けている印象がありますが、目指したいことは「「マジョリティ」を怖気付かせることではなく、お互いが気持ちよく愉快な関係をほかでもないあなた(たち)と一緒につくりたい」ということなのだといいます。

「マジョリティ」の側が気を遣い過ぎて、かえってこちらとの間に分厚い壁ができてしまうというような……。私が、「マイノリティ」とみなされてしまう自分について正直に書くことや、そんな自分の違和感を素直に晒すのは、「マジョリティ」を怖気付かせることではなく、お互いが気持ちよく愉快な関係をほかでもないあなた(たち)と一緒につくりたいから
引用:小説家・温又柔インタビュー。「どちらでもない、宙ぶらりん」が楽しくて(20 Apr 2023)

だったら、自分の日本語ネイティブ(教師)としての加害性と言語学習者としての被害性を両方出した本を書こう。自分が学習者として、言語使用者として傷ついたこと、教師として、言語使用者として傷つけたことの両方を書けばいいと思いました。そして、自分が知らず知らずにかかっていた言語活動に関わる思考の囚われを「呪い」として問いかけること。世の中には100%信じることも、100%疑うこともない。みんながことば、そしてことばの世界において、上手に疑って上手に信じられるようになるのが大事なんじゃないかということを描きたいと。「お前はだからだめなんだ」という上から目線ではなく、「私はだからだめなんですよね」と下から目線で伝える。そんな感じで書いたのがこの本です。私もやりたかったことは、お互いがおじけづくことなく、お互いが糾弾しあうことなく、気持ちよくことばの活動をすること、ことばの活動に前向きな気持ちになることです。
 

ちなみに、私は、本を書いていくうちに、考えが変わったことがあります。最後の方で「ゲーム・修行・瞑想としての言語学習もあっていい」というのを書いたのですが、私は、ことばを学ぶことって、どんな実践でもやっぱり素敵なんじゃないかと思うようになりました。『みんなの日本語』で文型をドリルで学ぶ日本語の授業だって、そんなに悪くないんじゃないかと思ったのです。昔、重たい絵カードを抱えて教室に行き、イラストを指さして言葉を産出する時間も、今思えば、ある種の共同の紙芝居制作活動だったのかもしれません。機械的にドリルをこなすだけの教室という場所もまた、学習者にとっての現実逃避の「オアシス」になっているのではないかと思います。オアシスとか、リハーサルとか、現実社会から退避できる言語学習の場があるって、豊かだし、大事だと思い直しました。
 

そして、私はずっと「リハーサルの人生はダメだ」と思い込んでいました。でも、それ自体が別の呪い(本番の呪い?)だったのかもしれません。人生にはリハーサルがいっぱいあっていい、何が本番なのかよくわからない人生でもいい、今はそう思います。大事なことは「これってリハーサルかもしれない」と疑える自分がちゃんといることなのだろうと思います。

 

「柵の中の羊の私」でも、柵の中の羊なりに考えていることはある。周囲に浮かないように生きてきた人間にも、柵の中から社会に投げかけたい問いはある。「柵を飛び越えない羊」のままで羊の新書を書く。ーそれが、私の「トガル」実践なのかもしれません。
 

だから、この本を読んでくださった方も読まない方も「自分なんかが新書なんてとてもとても」とは思わず、「自分だったら、どんな問いを社会に投げるだろう」「自分だったらどんな新書を書くだろう」と考えてくれたなら、とても嬉しいです。

 

そしてトガルというメディアがその気持ちをそっと育ててくれる言論の場だといいなぁと思います。トガル新書企画会議室、どうですかね?
(なんか最後は「トガルを語る」みたいになってしまった。。。まあ、そんなのもアリスw)

2026年5月20日 再提出

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