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書名:ナラティブでひらく言語教育:理論と実践
(新曜社、2021.6.25)
 
編者鼎談―『ナラティブでひらく言語教育:理論と実践』をふりかえって

北出 慶子・嶋津 百代・三代 純平

 

―ナラティブとは誰のものか

嶋津:私が一番気になっているのが、ナラティブが放たれた後、そのナラティブは誰のものかということです。
   ナラティブは語り手だけのものじゃない、聞き手と一緒につくっていくものだ、
   というのが4章で私が書いたことだったんだけど、そこからさらに、
   ナラティブが今回のような本になったときに、読み手の存在というのが加わると思った。
   それを考えるきっかけになったのが、実践編の八木真奈美さんの章。ナラティブを教材にする過程で、
   研究者である八木さんと、ナラティブを語る人たちのやりとりがあって、そこでもエンパワーメントが
   起こったり、研究としての意味づけが起こったりということがあると思う。でも、教材になったときに、
   それを読む人たちが、そのナラティブをどう捉えるかというのは、その人たちがそのナラティブを自分なりに
   捉えて完結させていくというか、そこからまた新たな意味が生まれる。


三代:この前、北出さんも言っていたけど、ナラティブは、例えば、インタビューの場面、研究者がナラティブを
   解釈する場面、研究として公開したものが読者に読まれる場面など、いろいろな局面でいろいろな人がその
   ナラティブに接することで意味が発生するから、ナラティブは誰のものかといえば、それは開かれていると
   答えるしかないかなって僕は思う。そういう意味では、ナラティブの実践研究もまた開かれていて、読み手
   として想定される実践者の人の中で新しい意味を獲得していく。とするなら、ナラティブの実践研究が
   どのように読者に届いているのか、あるいは、どのように消費されているのかということ、ナラティブの
   実践研究のような視点のものも今後は必要だろうって思う。


北出:ナラティブが開かれているというのは、ナラティブの醍醐味でもあるし、一方で何か理解しにくいところ
   でもあるよね。ナラティブが共同的に意味構築されると捉えるとき、主体・客体という単純な区別は
   できなくなる。でも、そういう考え方を、ナラティブ初心者の方に伝えようとするとき、どう伝えれば、
   理解しやすいだろうと考えると悩ましい。

 

嶋津:そうだよね。それが、ナラティブの分析にも関わってきちゃう。
 

三代:僕たちも、現象学とか社会構成主義とかに関する本を読んだり、ナラティブの理論的な研究を読んだりして、
   ナラティブ的な発想を理解しているつもりではあるけど、理論的につめて言語化するというのは結構難しい
   部分もあるのかもしれない。そして、日常的な感覚では、どこか、主体・客体というような捉え方に自分も
   慣れてしまっている部分もある気がする。


北出:ナラティブって、その世界観に、奥深さというか、いわゆる日常感覚と違う斬新さがあるんだね。
   そういう部分を、この本の1章、2章でもわかりやすく伝えたかったんだけど、
   ナラティブ的な世界観の示し方については、もっと追求していかないといけないかなって思う。

―ナラティブをつかむ

 

嶋津:たしかに北出さんの話を聞いて、ナラティブをとりいれることで、言語教育としてこういうことができるよね、
   こういう形で社会に貢献できるよね、ということを、もう少しわかりやすく述べられたらいいのかなって。

 

北出:ただ、今回、本をつくるにあたって、ナラティブを整理してみて、本当にナラティブというのは多様で
   その全体像を示すというのは難しい。いや、でも、だからこそ面白いかもしれないけどね。
   ナラティブって(笑)。やっぱり、何かつかみどころないよね。何かわかったと思っても、やっぱり。

 

嶋津:わからん(笑)
 

三代:全体をつかもうとするからいけない(笑)。また違うナラティブがあるし、違う側面があって。


北出:うん。こういうのも見えてきた、見えてきたで。


三代:こういうのを見たいときは、こういうナラティブとか。私はこのナラティブでいくというのがそれぞれあって、
   たくさんあるナラティブの集合体がナラティブなんじゃないの。

 

北出:そう。それが理想なんだけどね。たぶん、ライフストーリーとか特定の切り口から入った人は、
   それが基本にあって、そこから派生して、ああ、こういうナラティブもあるのか、こっちもあるのかって
   見えてくるんだけど。まず、その入り口がない人も多いと思うんだよね。
   そういう人に、どこからどのように示すと分かりやすいか。


嶋津:そうだね。あの本の目的としては、これからナラティブに興味を持つ人がもっと増えればいいなというのがあった。
   あの本を読んでナラティブを研究しよう、実践しようという人のために、次の段階としては、
   今、北出さんが言ってくれたように、少し整理したものを見せてあげないと、というのはあるよね。
   もちろん整理することのマイナス面や、整理する過程である種のジレンマもあるんだけど、
   そのジレンマを抱えながら、マイナス面も知った上で整理すること、私も必要だと思う。


北出:うん。そうだね。
 

嶋津:整理することの難しさ、ジレンマ、そういったものを私たちこのナラティブの本をつくる過程で経験しましたよ
   ということで、次のステップに進める。

 

三代:言語教育におけるナラティブをマッピングするような作業が必要なのかもしれないね。

―ナラティブの実践研究

 

北出:さっき嶋津さんも三代さんの話にコメントしてくれた通り、実践というところは、やっぱり何か、
   いい議論がちょっと芽生えてきた気がしますよね。
   例えば実践研究のあり方、今後、何かナラティブのよさを生かせるような実践研究のあり方だったりとか、
   実践研究じゃなくても実践を共有するあり方だったりとか、そのあたり、何かできそうですよね。

 

三代:実践は実践で何かマッピングはできそうな気がしたんですよね。
 

嶋津:うん。実践のマッピングって、どういう?
 

三代:どういう目的でナラティブを取り入れた実践をやっているか。
 

嶋津:目的で切っていく?目的か。
 

三代:聴く方に活動の重点があるか、それとも語る方にあるか。
   例えば、自分のことを語ることによるエンパワーメントと、
   他者の声を聴くことによるエンパワーメントってあるじゃないですか。

嶋津:うんうん。あるある。
 

三代:語れば聴くから、もちろんどっちもあるんだけど、結構、実践によって、どっちに重きを置いてるかって違うんだな
   と思って。

 

嶋津:違うね。うん。
 

三代:それはその人の実践研究の書きぶりにもよっちゃうんだけども、例えば、ヒューマンライブラリーと
   デジタルストーリーテリングってかなり近いものがあるけど、それぞれの活動が紹介された文献を読んでると、
   やっぱりヒューマンライブラリーは聴くところから始まってるんですよね。基本的には。


北出:ああ、そうか、そうか。
 

三代:デジタルストーリーテリングはどっちかというと、デジタルストーリーをつくるほうをつくるところから
   始まっている気がします。当然そのあとに聴くという行為が生まれるんだけど、まず、そのつくるほうから
   始まってる気がする、当事者が語るという。

 

北出:本の「まえがき」を書いてるときに、その2種類のエンパワーメントがあるという話を何かみんなでした
   と思うんですけど、一つは、社会的マイノリティーの声を聴く。そういう意味のエンパワーメント。
   まあ、一般的にいうエンパワーメントは、そっちがイメージしやすいと思うんだけど。もう一つは、自律学習とか、
   教師成長もそうだけど、自身が成長することができるというほうのエンパワーメント。この二つのナラティブの
   意義も、何か分類の一つの観点として使えるのかなって気はしますよね。


三代:だから自分の成長みたいなところ。豊田さんのキャリアナラティブなんて、そうですよね。キャリアナラティブの
   場合、やっぱり聴くより語る方に重きがあるのかなと思います。そうすると、(自分の声を)語る-聴く、
   自己の成長-社会的エンパワメントのような観点からもナラティブの実践研究を整理できるような気がします。
   試しに独断と偏見で本書の実践編でやってみるとこんなふうになります。

図:ナラティブ・アプローチの実践マッピング試行

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*ナラティブ・アプローチでは、ナラティブのもつ多声性、あるいはナラティブの相互行為による共同構築、自己内対話などに注目し、自己の声と他者の声を明確に区別することができないという立場に立つ。ここでは、実践の特徴を捉える上で、学習者や参加者が、自身のことについて語ることを中心とする
ものを「自分の声を語る」、他者の語りを聴くことを中心とするものを「他者の声を聴く」と試論的に記載する。

三代:また、別にマッピングにしなくても、何か五角形の星にしてもいいと思うんです。


嶋津:チャート。
 

三代:それ(笑)をつけて自分の実践を見たりしたら、面白いかなとは思う。ただ面白いだけだけど(笑)
 

嶋津:なるほど。ああ、何かそれ、いいかも。
   それを提示してあげると、自分の実践を振り返るきっかけになるというか。

 

三代:こっちから他の人の実践をチャートにして提示しちゃうとちょっと暴力的だから、
   一緒に話し合ってつけるとか、自分でつけてもらうとかがいいかもしれない。

 

嶋津:いや、いい、いい。うん。何か次の議論のきっかけになるわけじゃん、それが。
 

三代:何か自分の実践を考えるときの何か一つの考え方にはなるかなと。


嶋津:そうね。それが評価ではなく、ね。
 

三代:そうそう。評価じゃない。
​   自分が実践をデザインするときに、ああ、どうしようかなとか、考える指標になる。

 

嶋津:ね。うん。そうそう。分かる。

―ナラティブの評価と未来


北出:やっぱり既存の枠組みに無理やり、そのナラティブとか新しい世界観のものを入れ込むから難しい。
   本当は新しい枠組みをつくって、こういう評価のあり方、こういう価値のあり方もあるんだという、
   ゼロから新しい枠がつくれたらいいんだけど、既存の枠組みを何とかちょっと調整して入れ込もうとするから、
   無理が出るのかなって気はするよね。

 

嶋津:うん。それと、いわゆる経験や体験の表現の仕方。それを私たちはナラティブと呼んでいるけれども、ナラティブ
   という形式というか、表現というか。その未来だね。ナラティブを話す、その経験の所有者がこの方法でしか表現が
   できないって言って表現したときに、研究者や実践者がそれをどう解釈していくか。そこにナラティブの未来が
   あります、というふうにいけばいいのかしら。これまでナラティブの表現とか形態がことばというふうに私たちは
   思っているけれども、これからどうなるのかなということも考える。

 

北出:でも意外と何か出てきてないよね。これからはそのデジタルでいろんなマルチモダルなナラティブが出てくるとか
   随分前から言われているけど、意外と少ないよね。何かもっと出てもいいはずなんだけど。

 

三代:評価する枠組みとか出せるところがないだけかもしれない。
 

北出:ああ、やっぱりそうか。それか。
 

三代:特に映像に関しては何かのきっかけがあれば、すごい増えるんじゃないの?
   評価してくれる人がいてくれる媒体があれば。

 

北出:うん。確かに。
 

三代:でも映像だと伝わる雰囲気とかさ、空気感とか、あるじゃん。実践。実践とか、やっぱりことばで読んでも
   ピンとこなくても映像を見たら、ああ、こんな感じって思える。特にその教師がどう指示出してるのかとか、
   どう学生とやりとりしてるのかとは、映像を見たほうが分かるじゃん。一発で分かるしね。
   だから映像、PDFの中に映像がはめ込まれて、そこを押せば映像がバーンとあがってくるとか。
   ARとか、いろんな技術があるから、それをだんだんみんなが使いこなせてきたら増えると思うんですけどね。

 

嶋津:その受け手のほうが準備ができてないんだよね。きっと、まだ。
 

三代:どう評価するんだ。これって。


嶋津:あまりにも開かれすぎていて、受け手の取り方が、こっちがどう受け取っていいか。


三代:そう。例えば、絵画をプロダクトとして提出されても、査読者は、絵を評価した経験があんまりないだろうから。


嶋津:ないからね。ことばって制限があるから、制限を課したほうが評価はしやすい。


北出:そうなんだよね。あと、肖像権も、問題になるしね。ちょっとイラスト出したりしても、それが、あとあと、
   その人の個人の特定につながりかねないというようなことは結構、ナラティブの、あのビジュアルナラティブとか
   でも、壁になりますね。ちょっとずつ、ビジュアルナラティブも評価されてくるといいんだけどね。学会誌とか、
   結局ゲートキーパー的な部分が、やっぱり変わらないと普及しにくいのかも。

 

三代:あと、やっぱりつくり手もどうつくっていいかわからない。
 

北出:ああ、そうか。つくり手もですね。
 

三代:一つ出てきたら、だんだんそれがいいと思えば、みんなやりだすと思うんですよね。
   そういう形で表現する必然性があれば。