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書名:自分の〈ことば〉をつくる
—あなたにしか語れないことを表現する技術ー
(ディスカヴァー携書、2021.8.20)
 
表現の扉は、内側からしか開かない
―意味と原理に向き合えば、〈私〉の世界が変わる―

細川 英雄
(言語文化教育研究所八ヶ岳アカデメイア)

 

 
本書執筆のきっかけ

 

この本を書くきっかけは、前著『対話をデザインする』(ちくま新書、2019.6)で、対話の究極は、自らのテーマをもって他者とともに生きることという原理を示したことによる。読者からの反響で一番の大きかったのは、「では、自分のテーマはどのようにしたら持てるのか」という質問だった。


自分のテーマを持つという課題は、大学院生が研究課題に取り組むために不可欠なことでもあるので、在職時の学生指導も兼ねて、当時『論文作成デザイン-テーマの発見から研究の構築へ』(東京図書、2008)という本を書いたのだが、ちょうどこの本が版元で絶版になってしまったため、もう少し広い読者向けの一般書として書き直しを考えていたところだった。


幸い、以前お話をいただいた出版社の担当者とやりとりをしているうちに、このテーマについて話題となり、出版の運びとなった。


執筆・編集の過程で出版社から強く要求されたことは、学術論文の本ではダメで、一般の人、とくにビジネスパーソンが興味を持つような内容にしてほしいということだった。
 

一般企業で働いた経験のないわたしにとって、この要求はかなり厳しいものがあり、全体の枠組みをつくる際にかなり苦労した。実際にビジネスパーソンがどのような場面でどのようなことに悩んでいるのかは、皆目わからないからである。


そこで、読者対象をだれにするかという課題はいったん棚において、表現活動の意味と原理に立ち戻って考えてみることにした。
 

自分の〈ことば〉をつくるとは、自分のテーマを持って自己および他者と対話すること。─この本で言いたいことは、この一言に尽きる。これは、前著の趣旨とも符合している。たとえば、人前で話したり作文を書いたりすることが苦手な中学生・高校生およびその指導の先生方、固有のテーマで〈考えていること〉をまとめようとする大学生・大学院生、そして組織のなかで自らをとりもどそうとしているビジネスパーソンをはじめとして、広く表現活動に関心を有する人にとって、自分のテーマを持つことの意味は大きい。
 

このようなスタンスをとれば、むしろ読者対象を限定せず、本をつくることができるのではないか。執筆の段階で次第にこのことに気づきはじめた。

 

方法ではなく、考え方を示すところが、出版社のもう一つの要求は、理念や考え方ではなく、具体的な技術・方法を示してほしいというものだった。要するに、世の中は、思想では動かない、すべて技術に支配されている。出版も然り、この現状に、真正面から対抗することは、今のわたしにはなかなか難しい。
 

しかも、読者の多くは、「あなたの理念はわかった!しかし、そこに至るには<どうやって?道筋は?>でしょう」と迫ってくる。たしかに、世の中には、理念や考え方ではなく、その方法や技術を知りたがる傾向があることはまちがいない。
 

しかし、それはなぜなのか。それがまさに、自分のことばを持たないからなのではなかろうか。
 

そこで、タイトルには「あなたにしか語れないことを表現する技術」とし、解決の方法か技術のように見せておいて、実際の中身は考え方について語ることで、読者一人一人にこの矛盾に気づいてもらうことにしようとわたしは考えた。
 

わたしたちの活動は、現象的には、方法や技術として実行されているように見えるけれど、実際は、意味と原理にもとづいておこなわれている。この意味と原理を見失ったまま、方法や技術を追い求めても、真理は得られない。利益・効率の追求や自己満足のために行われる活動は、得てして、こうした陥穽から抜け出せない。
 

やや極論すれば、意味と原理さえしっかり押さえられていれば、方法や技術は、その活動の数だけ、その実行者の数だけあっていい、むしろ、そうあるべきなのではないか。このあたりは、推薦の帯をもらった苫野一徳さんが日頃主張していることと重なっている。

「考える」から一歩踏み出す

意味・原理に立ち戻るということは、「考える」からさらに一歩踏み出すということをも意味している。
 

このような表現活動それ自体を理解したり受け容れたりするのが容易ではない人々も大勢いる。とくに、この本の中で強調している「自分の問題として捉える」という姿勢は、アカデミックな分野でもしばしば敬遠されがちなものである。
 

しかし、この「自分の問題」を回避してしまうと、課題探求の根っこが容易に崩れてしまう。
たとえば、修論・博論を書いて無事就職したけれど、いざ実際の学生指導の場面で、自分の立ち位置が問われ、右往左往する例をたくさん見てきている。

 

つまり、自分と研究を切り離し、「客観的」な手法を手に入れたつもりが、いつの間にか自分の居場所を失っていることに、改めて気づくのである。
 

最後のエピソード「自分のことばで語るときまで―千葉くんの挑戦」の事例で言うと、部活の「小野くん」と話すことによって、千葉くんは、アーレントの言う「もう一人の自分」と対峙せざるを得なくなる。追い詰められて、ふと振り返ると、それは、自らがひらかれる体験であったことに気づく。このような経験の場を、読者一人一人が重ねることによって何が始まるのだろうか。
「もう一人の自分」と向き合うことによって、問題の意味・原理を問うことの重要性が明らかになるとわたしは考える。その結果として、さまざまな方法技術主義から、自分自身を解放する可能性がここにあるからだ。

 

だからこそ、学びとは、情報・知識の量を増やすことではなく、考え、そして行動するための、ブレない〈私〉の軸を持つということ。これが、自分のテーマを持つことと深くつながっていることを痛感する。
 

表現活動とは何かという、大きな問いにわたし自身が向き合いつつ、自分のことばで表現したいと願う多くの人たちへの応援の書として、この本を世に問うことになった。
 

表現の扉は、内側からしか開かない。それぞれの活動の経験とそのありようをお知らせいただければ幸いである。

 

【付記】
この稿を書くにあたり、ドイツ・ベルリンの山田ボヒネック頼子さん、大阪の岡崎洋三さんからいただいたメールがとてもいいヒントになった。記して御礼申し上げる。