#30
茨木のり子さんのことば
笹川史恵
これを読んでくださっている皆さんの中には、「私が一番きれいだったとき」という詩を読んだことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。これは詩人・茨木のり子さんの代表作の一つで、私もこの詩を学生時代に国語の教科書で読んで茨木のり子さんという詩人を知りました。
改めて、私が茨木さんに出会ったのは、ちょうど疲れきっていた時期でした。当時はコロナ禍が長期化しており、閉塞感や先の見えない不安感を抱え続けると同時に、そんな状況にうんざりしていました。日本語教師としての実践や研究に対しても、没頭というよりは粗を見つけては自分を否定し、もっとうまくできなければダメだという漠然とした焦燥感から自らを追い込んでいました。職場で黙々と仕事をして疲れて家に直行する、そんな毎日で、一人、社会から切り離されているのではないかと孤独を感じる瞬間さえありました。
こうした日々を過ごしていたとき、茨木さんの詩や彼女の人生について書かれた記事をインターネット上で見つけました。記事に掲載された「私が一番きれいだったとき」の一節を改めて読むと、置かれた状況や経験したものは全く違えど、不思議と、当時の私のしんどさを受け止めてもらえるように感じました。パンデミックという自力ではどうしようもない事情に振り回され、我慢を強いられることのやるせなさや、どこにもぶつけようのない怒りや焦りを抱えた私を慰めて励ましてもらえたような気持ちになったのです。もっと茨木さんを知りたいと思い、茨木さんの詩集を読むようになりました。
私のお気に入りの詩集『おんなのことば』は「自分の感受性ぐらい」という一編から始まります。
ぱさぱさにかわいてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて (「自分の感受性ぐらい」より一部抜粋)
心が疲れてなんとなくやる気が出ない私を、誰かが、何かが引き上げてくれないだろうか、そんな甘えた他人頼みの態度を見抜かれたようで、ヒヤリとしました。自分に対して責任を持って行動して、どんな自分になるかは自分次第なのだから、そう鼓舞されているような気がしました。
それから、一人でいる時間も大切にしたいと感じさせてもらえた「一人は賑やか」という一編も収録されています。
一人でいるのは賑やかだ
賑やかな賑やかな森だよ
夢がぱちぱちはぜてくる (「一人は賑やか」より一部抜粋)
思えば、研究や授業について考えるときや刺激的な論文を読むとき、一人でいるけど私の頭の中は賑やかでワクワクする瞬間があることを思い出させてもらえたと同時に、一人の時間を肯定的に捉え楽しんでいきたいと視点を転換するきっかけになりました。
こうした詩を読み進めていくうちに、茨木さんという人物は、軸を持ち、自らを律しながら生きていた強い女性なのではないかという想像が膨らんでいきました。しかし、この詩集を締めくくる「汲む―Y・Yに―」では、そんな茨木さんの繊細で柔らかい一面も現れています。この詩は茨木さんが尊敬する方のために書かれたもので、その方のことばを受けての気づきが綴られています。
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな (「汲む―Y・Yに―」より一部抜粋)
大人だから、日本語教師だから、研究者だから、女性だから、〇〇歳だから…私の周りにはいろいろな「だから」が散らかっていて、それに無理やり自分を合わせようとしていることに気づきました。自分をよく見せなくてもいい、無理しないで、ちょっと一息ついて私の本当の気持ちに耳を傾けてみようと思い始めることができました。
この詩集の中には、いろいろな茨木さんがいて、さまざまなことばで私たちに語りかけてくれます。ある時は背筋を正すように、ある時には愛情深く、そして、またある時にはユーモアたっぷりに。疲れたとき、寂しいとき、なんだかムシャクシャするとき、茨木のり子さんのことばが私たちを応援してくれるのです。