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#28

にげて、にげて、にげた先に

村田竜樹

「私はどのような人生を歩んできたのだろうか。」
参考文献番外編のお話をいただいたとき、まずは改めて自分の人生をふりかえる必要性を感じました。そこで、少し自分語りをしたいと思います。

私は高校生3年生のころから潰瘍性大腸炎という病気を抱えて生きてきました。学部1年次に症状が悪化し、夏ごろには入院、2年次も入院寸前まで悪化し、大学生活のスタートダッシュは散々な結果に終わりました(大学デビュー失敗です・・・)。その後は何とか踏ん張り卒業までこぎつけましたが、他者との積極的な関わりを避けていました。そんな私が博士前期課程の受験を決めたのは、就職するのが怖かったからです。心の中には「にげた」という感覚がありました。

博士前期課程では、できるだけ「普通」に、病気だとばれないように生活しました。幸か不幸か、症状が落ち着いていれば生活に支障もなかったため、気づかれることもなかったと思います。初めて研究というものに真剣に取り組み、同期や先輩、先生方からたくさんの刺激をもらい、それなりに充実した日々だったと思います。しかし、心には何とも言えない恐怖、不安、劣等感、孤独感のようなものがありました。その後、博士後期課程に進学しましたが、ここでも「にげた」感覚でした。もちろん進学の理由はポジティブなものも含めていろいろあるのですが、「にげた」感覚が心の底にこびりついているようでした。そのころにはもう体調は全く問題ありませんでしたが、やはり劣等感や孤独感、マイノリティ感、自分への嫌悪感などが付き纏っていました。そんなときに出会ったのが、高橋メアリージュンさんの『わたしの「不幸」がひとつ欠けたとして』です。

この本は、幼少期の借金生活や潰瘍性大腸炎などを経験した高橋メアリージュンさんが、ご自身の人生について語ったエッセイです。彼女は終始ポジティブに過去をふりかえり、前向きなメッセージを投げかけてくれます。当時の私にとっても、この文章を書いている今の私にとっても、彼女の言葉は悩める私を大いに勇気づけてくれます。

「他人から見えた「不幸」は、必ずしも本人にとっての「不幸」ではないのです。」p5

この本に出会ってから、人の人生や内面への興味が一層強まりました。それは私自身が、複雑な思いを抱えながらも、周囲に悟られないように「普通」を演じてきたからかもしれません。心のどこかで本当の私を知ってほしい!と思っていたからかもしれません。彼女の言葉は言い換えれば、他人から見えた「幸せ」は、必ずしも本人にとっての「幸せ」ではないということでもあり、他人が幸不幸を判断することの無意味さを感じました。それと同時に自分にとっての幸せとは何なのか考えるようにもなりました。そして、外から見るだけではわからない当人の思いを理解したいと感じるようになりました。その思いが研究にもつながっていると思います。

「その「過去」があったことでいまのわたしが「不幸」か、と言われると、はっきりとNOだと答えられます。」p16

もうひとつ、この本を読んで感じているのは、過去への意味づけが現在そして未来の自分を形作るということです。ちょうどライフストーリー研究を始めたころだったこともあり、印象に残っているのかもしれません。過去の事実は変わらないですが、その意味は人生を歩む中で変わっていきます。そしてそれをどのように意味づけるかで、その後の人生も変わっていくのだろうと思います。メアリージュンさんの前向きでひたむきに生きる姿勢も、過去の経験をご本人なりに意味づけているからではないかと思います。意味づける行為の持つ力を感じました。そして私の研究の興味も「過去の経験をどのように意味づけるのか」という点に向いていきました。そしてそれは自分自身へ向けられた問いでもあると思います。

今私はライフストーリー研究と、地域日本語教育の活動に邁進しています。たいへんなこともたくさんありますが、やりがいのある充足した生活を送っています。にげて、にげて、にげた先にこのような生活があるとは思いもしませんでした。そう思えば、これまでの劣等感や孤独感などが付き纏う生活も少し鮮やかに映るようになりました。この本は、私自身が病気の経験をどのように意味づけるのかについて考える機会を与えてくれたのだと思います。複雑な思いがなくなったわけではありませんが、前よりも前向きに捉えられるようになった気がします。

自分が痛みを感じてきたからこそ、人の痛みにも敏感でありたいと思います。
研究でも、地域の活動でも、私生活でも。

この先、何かで悩むことがあったら、またこの本を開こうと思います。

紹介した人:むらた たつき

紹介した本はこちら

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