#26
私のことばの響きを探して
神谷志織(金志唯)
「私のことば」ってなんだろう。そう尋ねられたら、私は未だにうまく答えを出すことができない。6年ほど前、大学で配属された研究室のゼミの初日に先生に問われた。「自分の母語は何だと思うか」。当時は、少し悩んで「母国は韓国だが、母語は日本語だと思う」と答えた記憶がある。今でも自分の母語を問われたら悩んでしまうと思うが、今はあえて、「日本語と韓国語、両方が私の母語だ」と答えたい。
私は韓国人の両親のもとに生まれながら、幼少より日本で育った。一時は自分が日本人なのか韓国人なのか、自分の母語は何なのか、韓国人なのになぜ韓国語が下手なのか、と悩んだこともあった。そんな私が、勇気づけられ、教師としても研究者としても、そして複数の国の間に生きる一人の人間としても、ずっと大事にし続けたいと思う本が、温又柔さんの『真ん中の子どもたち』という作品である。
この本に出会ったのは、数年前のことだった。自分の経験を出発点に、外国にもルーツをもつ子どものことばの教育について研究し始めた当初から、温又柔さんという作家の存在は知っていたが、なんとなく手を出せずにいた。自分の関心や境遇と近い人物たちが登場する作品に、逆に尻込みしていたように思う。自分の心のやわらかいところを直撃されるような気がして、「読みたい」と思いつつ敬遠し続けていた。そして研究を続けて数年、やっと「読もう」と思い立ち、まず初めに手に取ったのがこの本であった。
これは、台湾人の母と日本人の父のもとに生まれ、日本・東京で育った主人公・琴子(愛称・ミーミー)と、琴子が中国に留学して出会った嘉玲(愛称・玲玲)・舜哉たちの物語である。玲玲は台湾人の父と日本人の母をもち、舜哉は日本国籍に帰化した両親をもつ。日本・中国・台湾と複数の国の間で揺れ動きながら自らの生き方を模索する様が作中では描かれている。
特に印象深かったのは、ミーミーの中国語をめぐる話である。
ミーミーは「日本から来た留学生」として中国語を話すと褒められるが、自分の出自を明かした相手からは「それならどうしてその程度の中国語しか話せないのか」と言われてしまう。また、中国語を教えてくれる陳老師は「きちんとした正しい中国語」を教えるため、ミーミーの台湾訛りを厳しく指導する。中国に留学したことで、ミーミーは幼少より育んできた自分の中国語に自信を失ってしまう。
そんなミーミーに舜哉は繰り返す。「ナニジンであろうがミーミーはミーミーなんだから、ミーミーの中国語を堂々と喋ればいい」、「どこにいようと、ナニジンと話そうと、ミーミーはミーミーの中国語を喋ればええんや。」と。舜哉は自信満々に「我的母语是西日语(ぼくの母語は西日本語です)」と言い放つのだった。
自身の中国語に悩んだミーミーも、大人になって中国語の教師となる。一人の教師として、ミーミーは学生たちに宣言する。ルーツをもつ学生の訛りは「かのじょが祖父母や両親たちが喋る中国語を聞いてきた証」、そして「完璧な発音なんて目指さなくてもいい。ネイティブにだって、そんなひとはいないんだから。日本語と同じ。でも、通じない発音というのはある。わたしが教えたいのは、きちんと通じるための発音なの。」
もう一つ、私がこの作品を読んだときに胸に響いた一節を紹介したい。日本人である父の「知道了嗎?」という言葉にミーミーは思う。「母語である日本語の反響が感じとれる、父の中国語。この響きもまた、私の母語の一部なのだ。」
この一節を読んだとき、私は亡き祖父を思い出した。日本で、日本語で育つ孫たちに祖父が遠い日本統治時代の記憶を手繰り寄せては片言の日本語を話してくれた。私たちが大人の話す韓国語がわからず返事ができないとき、そのほか何か失敗したとき、祖父はケラケラと「ショーガナイネー!」と笑い飛ばすのだった。そこには本来の言葉の意味以上に、その言葉を使う祖父の愛が込められているように感じたものだった。祖父の「ショーガナイネー!」には、祖父の母語である韓国語と、祖父が子どもの頃に学んだ日本語と、そして日本で育つ孫への愛が反響していた。
大学の講義で機会に恵まれ、作者である温さんとお話をしたことがある。温さんにとってご両親の母語である言語とはどんな存在かと尋ねた。温さんは「外国語としてマスターはできないけれど、心の奥で眠っている旋律で、大事なもの」といったことを仰った。そして、本にサインをいただいた際には「私は私のコトバで生きてゆく」という言葉を贈ってくださった。
私たちはみな、心の奥で眠る大事な旋律を抱えて生きている。どこにルーツがあろうと、ナニ人だろうと、日本人だろうと、みな等しくそれを持っているはずである。家庭のことば、あるいはこれまで関わってきた私の大事なひとたちのことば。そうしたたくさんの旋律が反響して、「私のことば」の響きが生まれる。
私は、それが日本語であれ韓国語であれ、はたまたナニ語であれ、私のことばの響きを大事にしたい。私のことばにこれまで関わってくれたひとたちを大事に、私のことばの響きを愛したいと思う。同様に、これから出会うひとたちのことばの響きを大事にしたい。それは、多くの子どものことばに携わる一人の教師、研究者として努めたいことでもある。
ぜひ一度、「私」のことばの響きを、その心の奥に眠る旋律を、その反響を、感じてみてほしい。
紹介した人:かみや しおり(きむ じゆ)