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#25

東畑開人『居るのはつらいよ』

田野茜

『居るのはつらいよ』は、大学院を卒業し、「ハカセ」号を手に入れた主人公の東畑が臨床心理士として就職した沖縄の精神科デイケア施設での経験を書いている「ガクジュツ」書である。「ガクジュツ」書を名乗っていながらも、エッセイの言葉で語られている。というのも、「ただ、いる、だけ」の価値とそれを支えるケアの価値を擁護し、ケアを必要とする人たちの居場所を守っていくためには、個性豊かなメンバーさんたちとスタッフとの日々をコミカルに描くこの方法がふさわしい語られ方なのだという。
デイケアとは、精神科疾患を有するものの社会生活機能の回復を目的として個々の患者に応じたプログラムに従ってグループごとに治療するものとされる。デイケアとは人と一緒にいることが難しくなった人たちが「いる」を試みる場所である。ただ、デイケア施設で何もしないで、10時間もの長丁場を「ただ、いる、だけ」で過ごすのは容易ではない。何も「する」ことがなくて「いる」のがつらいのである。「いる」がつらくなると「する」を始めるが、「いる」ためには、その場に慣れ、そこにいる人たちに安心して身をゆだねられるようにならないといけない。
「いる」とは無防備でいても傷つけられないという安心感のある場所(=居場所)で可能となるものであり、十分にケアされていることによって初めて成立するという。何かに依存できなくなったり、強制されたりすると失敗するものらしい。傷つけられるのではないかと脅かされやすく、誰かに/何かに身をゆだねながら「いる」のが難しい人たちと一緒に「いる」こと、それが東畑の仕事になる。もちろんセラピーの業務もあるのだが、ほとんどはデイケアに来る人たちと一緒に居ること。そうした日々を過ごしながら、患者や同僚いろいろな人たちと関係を持ち、会話し、カウンセリングをする。その中で、治療とは何なのか、"セラピー"と"ケア"はどのような関係にあるのかなどについて、デイケアのメンバーさんをはじめとする様々な人とのかかわりあいを通して、東畑は私たちに教えてくれる。
東畑によると、本来、心理士は「セラピー」を担い、看護師は「ケア」を担うという。それらは、どう違うのか。簡単に言うと、ケアとは「傷つけない」「依存を引き受け、日常を支える」ことを大事にし、セラピーは「傷つきに向き合う」「非日常の葛藤から成長する」ことを目指す、と言えるようだ。ただ、実は、ケアもセラピーも、人が人に関わるとき、誰かを援助しようとするとき、常に両方あるものであるという。それらは成分のようなものであり、単純に切り分けられるようなものでもなく、特別なものでもなく、私たちが誰かと関わる時は、必ず、自然にやっていることらしい。
たしかに、人が人に関わるとき、それは常に両方ある。助けたり、助けられたり、依存したり、依存されたり、強くなったり。空気のように存在していて、目に見えないが、デイケア施設だけではなく、学校現場や、私が身を置く日本語のクラスにも存在している。もっと言うと、私が在籍している大学院の研究室にも、アルバイト先にも、神戸にある実家にも、ある。

そして私の実践や研究は、そういった「人(他者)」や「人との関係性」に対する想いから出発しています。「ことば」や「文化」を超えて「人」を研究対象にしたいと思ったのも、「個人レッスン」ではなく「集団授業」を実践の場として長年持ち続けているのも、「集団のなかでどのように『個人』を尊重するか」ということを考えたいからなのかなと感じています。
これまでの私の日本語教育実践では、教室内のすべての学習者が「ハッピーでいられる」教室づくりを目指しながら、文化的背景・言語的背景・環境的背景や個性からくる様々な他者性をもつクラスメートとの関わりのなかで、「対話」の場を作ろうとしてきました。教室空間を「小さな社会」とみなし、様々な価値観をもつ他者との関わりや対話を通して自身のアイデンティティをもったうえで、他者に敬意をもって他者を受け入れる態度を育んでいく必要があるとの思いから発言しやすい環境づくり、意見を出し合える体制づくり、教室内の学生を巻き込んだ雰囲気づくりに取り組んできました。
また、現在は、「日本語もできないし、弱い立場にある」とみなされることで容易に「いる」が脅かされる傾向にある「外国につながる子ども」に対する教育について考えていたりもします。「あなたの(ルーツがある)国の文化/ことばについて発表してくれる?」といって、彼らにスポットライトをあてることは、彼ら自身による自己意識を変容させ、ルーツを肯定的にとらえられるようになったり、同じクラスに在籍する児童生徒への理解を促したり…とポジティブに作用する部分も多くありますが、その一方で「する」の押し売りになってしまう可能性もあります。彼らは、たとえ、自身の国の文化やことばについて発表しなくても教室に「いる」ことができるはずであり、「する」ことによって「いる」の不安を紛らわす必要はないはずです。彼らを含む、教室内すべての児童生徒の「いる」を学力保障の面からも、心理的安全性の面からも保障できればと思っています。
「いる」が脅かされず、軽視されず、肯定されること。そのためには、「ケア」を担う存在がとても大切です。学校現場では、主に教師がそれを担っているのでしょう。ただ、現実には、「ケアする人がケアされていない」という、なんともつらい実態があるのも事実です。だから、私は、ケアする人(教師)をケアする、ケアする人の日常を支える仕事をしたいと思うようになりました。また、そうなると、ケアする人をケアする人、をケアする人…も必要になってきます。そうなると、ケアする人をケアする人のケアする人は、いったい誰にケアしてもらえるのでしょう。
そうして、「みんながハッピーでいられる」世界のために、私はいっそう「集団の力」に注目するようになりました。それは例えば、ガクジュツ界では「同僚性」や「共同体」、「グループエンカウンター」という言葉とともに語られているように感じます。
デイケアではスタッフがケアされることでメンバーさん(利用者)をケアすることもあると東畑はいいます。「目が慣れてくると、デイケアではケアがあふれ返っていることがわかる。ケアはぐるぐる回っている。 そうなのだ。メンバーさんはデイケアでただケアを受けているだけではない。彼らは互いにケアしあっている。ケアをしあうために、デイケアにやってくる。さらに、言っちゃうならば、ケアしあえるようになると、デイケアにいられるようになる。(p.204)」つまり、「何もしていない」ように見える人でもケアを受ける、「ケアされる人」、という役割を果たすことによって重要な価値をもつ存在になっています。すなわち、「いなくてもいい人」はこのデイケアには存在しないと言え、それは、言語学習空間に置いても同様でしょう。その点で、教師も学習者も教室には欠かせない存在なのです。
お互いをケア「する」、ケアしあいながら時間を過ごすうちに少しずつ人間関係ができてくる。その場に慣れ、安心して身をゆだねるうちに「いる」ができるようになってくる。人の役に立っていることで自己イメージが良くなり、集団の中での自分の居場所ができていく。ある程度の安全を回復したその先に「セラピー」が効果的に発揮される世界がやってくる…。
この本をきっかけに、「ケア」と「セラピー」をいかに教室空間に取り入れていくかを考えながら、実践現場に向き合うようになりました。それと同時に、同じように教壇に立つ教師(や学校や保護者、地域なども含め、学習者の周縁にいる人たち)に対しても、どのような理論や支援があれば、みんなが「ハッピーでいられる」のか、みんなが「ハッピーでいられる」ことや、その環境づくりに意識を向けられる人材をどのように育成していくのかに興味を持つようになりました。様々な価値観をもつ他者との関わりや対話を通して自身のアイデンティティをもったうえで、他者に敬意をもって他者を受け入れる態度を育んでいくには、どうすればいいのか、考えながら研究に向き合っていきたいと思っています。

―もっと、光を。
エビデンスと効率性の透明な光でもなく、
沖縄デイケア施設にいるタカエス部長の脂ぎったハゲ頭の不透明な光でもなく、
教室にふりそそぐ、あたたかくやわらかに個を照らす光を。

紹介した人:たの あかね

紹介した本の情報はこちらから(Amazon)

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