top of page

#09

人間味溢れる教師―鷲田清一『<弱さ>のちから ホスピタブルな光景』

中井好男

「このコーナーでは、みなさんの研究に影響を与えたバイブル的な作品(書籍、映像、演劇などなど何でも)を募集しています。」

ということですが、私の短期記憶はさることながら長期記憶にも問題があるので、思い出そうにも思い出せずしばらく悩みました。目から鱗でハッとさせられた著書や論文がたくさんあったのにもかかわらず、です。そもそもお勉強が嫌いで本を読んでいないからだということは重々承知しているのですが、思い出すのは、自分がこれまで現場で見てきた風景の歪んだ記憶ばかりでした。

まず、初めての論文が書き上がったので報告がてら伺ったボスの部屋で

「うちの学校にはそんな悪い先生はいない」

はい。おっしゃる通りです。悪い先生なんていないんです。

とある会議で
「この子の成績、あと0.3点あげたら『秀』になるんですけど。すごく可愛いし、あげてもいいですかね」

なるほど。容姿も成績のうちなんですね。美人は得をする。

続けて、「今学期、イケメンに当たらんかったんですよ」

それは残念でした。そういえば、イケメンもいい成績もらえるんやろな。知らんけど。

クラスのメーリングリストで
「授業報告は学生のやりとりとか、もう少し教室の様子がわかるように書いてください」

へ〜、ベテランさんは詳細を書いていないけど、教室の様子が伝わるんですね。私もそのテレパシーを受け取れるようになりたい。

講師室で
「背中が見えるようなブラウス着てくるなんてね」

おっと、私も服装を正さないといけないけれど、足首ぐらい見えててもええやろ。

そう思いながら、私は楽しそうに談笑している先生方が醸し出すなんとも言えない幸せな雰囲気に包まれていました。

私はこれまで、教え方が上手かったり、プライベートの時間を削ってまで献身的に授業やコーディネートに取り組み、学生さんの相談にも乗ってあげたりする先生方にたくさん巡り会いました。本当に尊敬していたし、頭が下がる思いでいっぱいでした。そして、そんな先生方の仲間になりたくて、人間味溢れる環境の中で、自分のペースで頑張ってきたわけですが、やはり大事なことは何一つわかっていなかったということに気がつきました。今回、この歪んだ記憶を回想する中で、記憶の中の誰しもが持っている<弱さ>から発せられた声を通して、<弱さ>が持つ力の存在とともにそれに従う力を身につけていく必要があることを再認識したからです。

<弱さ>やその力というのは、『<弱さ>のちから ホスピタブルな光景』が教えてくれたことです。この著書から<弱さ>こそが他者を受け入れる強さを持っていることを教わりました。私なりの解釈ですが、鷲田先生のお言葉をお借りしながらまとめると以下のようなことです。

まず、ケアの場面では「存在の繕いを、あるいは支えを必要としているひとに傍らからかかわるその行為のなかで、ケアにあたるひとがケアを必要としているひとに逆に時により深くケアされ返すという反転」(鷲田,2014: 205)が起こっています。乱暴ですが、弱いひとには強いひとを揺さぶる力が備わっているということです。例えば、ひとは困っているひとを見たときに手を差し伸ばさずにはいられなくなりますが、それは弱さという力のなせる技です。しかし、全ての人がそう思うわけでもありません。弱いものに引き込まれ、それに従うためには、今の自分を一旦括弧に入れて、その弱いものの声に耳を傾けなければなりません。ひとは、強いものにはいとも簡単に引き込まれてしまうのですが、弱いものに引き込まれるのは難しく、時として、非常に弱々しく、流暢に溢れ出ない言葉を待ちきれなくなってしまい、弱いものの言葉を横領してしまうようです。<弱さ>の力に従うということは、言葉が漏れでてくるのを待ち、ありのままを受け止め、自分が巻き込まれるように相手本位に思考と感受性を紡ぐことであり、そのためには、専門的知識や技能を一旦手放し、自分をほどく必要があると書かれていました。『<弱さ>のちから ホスピタブルな光景』には、尼さん、お坊さん、先生、建築家、ゲイ、小説家、性感マッサージ嬢、SP活動に従事する女性、ダンスセラピストといった人々との対話を通して、弱さに従い自分をほどくことが本当の自由であり、「そういう自由を他者の存在の<弱さ>が劈いてくれる」(鷲田, 2014: 225)様が描かれています。

私は過去に韓国から移住された方にこんなお話を聞かせていただいたことがあります。それは、その方が、日本語ができない上に女性であるということで虐げられているにも関わらず、日本で幸せに暮らしていると言い放つ在日コリアンとの関わりを通して、自身が揺さぶられ、生きている世界がひっくり返されたというお話でした。これはまさに<弱さ>の力がその方に劈いた自由だったのではないかと解釈しています。いずれにせよ、今回、上記のような歪んだ記憶の回想を経て、強いものに従うのはひとの必然であるわけですが、教師は強いものに惹かれ、強いものでいようとするのではなく、教師として出会う人々が持つ弱さの力に巻き込まれ、自分をほどき、紡ぎ直していくことが教師の自由であり、それを可能にする力を持つべきなのかもしれないと考えています。

私は「先生」と呼ばれてしまう仕事をしていますが、ひととかかわることを生業としている以上、教師として他者と接する時、教師はどういう存在でどのような力を持っているのかを自覚すると同時に、それをどうやって見つけていけばいいのかを考え続けなければいけないと思っています。上述のような弱さに巻き込まれる力を持つことがその解決方法の一つになるのかもしれませんが、この「尖」の中でも、その方法が見つけられたらいいなと願っています。

紹介した人:なかい よしお

紹介した本の情報はこちらから(Amazon)

bottom of page