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#07

多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』岩波現代文庫

大平幸​

参考文献番外編を書くにあたって、本棚を探したとき、なかなか目当てのこの本を探し出すことができなかった。

再度本棚を見返し、ようやくこの本を見つけ出したときに感じたのは「あれ、こんなに薄い本だったっけ」ということだった。私がイメージしていたのは、文庫本だけれどずっしり重く、厚い本だった。でも、実際に探し当ててみると、その本は意外と小さく、厚みも思っていたほどではなかった。この本を厚い本だと思い込んでいたのは、私にとって、この本がそれだけ印象が深いものだったということを表しているのかもしれない。本の印象の強さや影響力の大きさが、本の厚さとしてイメージされていたのだろう。

本を探しながらもう一つ気づいたことがある。それは、私がこの本を読んだときに感じた感覚を、こどものころ体で感じた感覚と重ねあわせていたということだ。私たちは、ある人のことを思い出そうとするとき、無意識のうちにその人のイメージや、出会った場所などの情報を瞬時に検索して、その人のことを思い出そうと試みる。そして、そのときに浮かんだイメージから、自分がその人にもっていた印象や感情に気づくことがある。この本を探しながら、無意識に思い浮かべていたのは、子どものころ、偏愛(?)していたタオルケットの中に頭からつま先まで包まれているような感覚、指と指のあいだでそのタオルケットの感触を楽しんでいるときの感覚だった。この本をどのように私の身体が覚えていたのか、この本を探していたときに、あらためて気づいた。

『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』は、多和田葉子というドイツ語と日本語、2つの言語で小説や詩、朗読など創作活動を行う作家が綴ったエッセーだ。日ごろからドイツ語と日本語の間を行きし、作品制作や講演、ワークショップなどの活動を通じて、世界の都市や町を旅しつづけている。

私自身は、それほど多くの国に行った経験があるわけではない。ただ、韓国には2回長期滞在したことがある。(結局、韓国語は生活上必要な最低限の用を足すことができる程度にしか上達しなかったけれど…)
韓国語は、ハングルが読める程度には勉強して行った。しかし、町の人が話す韓国語がまったくわからず、町にでかけるときはいつも、あらかじめ必要になるだろうことばをメモしてでかけていた。初めて学ぶ韓国語はとても新鮮だった。毎日少しずつ単語を覚えていく。単語や表現が増えると、生活も楽になっていく。そんなふうに少しずつ韓国語を勉強していった。

生活の中で出会ったことばには、いろいろな記憶がつまっている。たとえば「シウォナダ 시원하다」ということばがある。このことばは、ねっとりした空気に包まれた暑い日に、風を感じたときのような爽快感を表すことばだが、使われる範囲は私たちが考える以上に広い。例えば、韓国語を話す人は、焼酎を飲んだときの感じを「シウォナダ」ということばで表す。ここまではまだわかるが、熱いスープを飲んだときの感覚も「シウォナダ」、熱い湯舟につかったときの感覚も「シウォナダ」ということばで表現するらしい。日本語教師の先輩から、日本語を学んでいる人が、日本語の「涼しい」ということばを、過剰に一般化して、熱いスープを飲んだときなどにも「涼しい」といってしまうことがあるというのを聞いていた。私も実際に食事のときに、知人が熱いものを口にして「涼しい」っと言うのを聞いたときには、なるほどこれかと妙に納得したのを覚えている。
ついでにいうと、韓国の(主に)男性は、熱いスープを飲んだり、焼酎を飲んだりしたとき、よく「カー」っという。私は、のどの奥を絞って出す、この「カー」という音が、好きではなかった。痰を吐き出すときなどに出す音ととてもよく似ていたからだ。
しかし、不思議なもので、ときが経つにつれ、スープや焼酎を飲んだときの「シウォナダ」も、「カー」も、いつの間にか自然なものになっていった。飲みすぎた次の日に、スープを飲んで人心地ついたときに、自然に「シウォネ」ということばが頭に浮かぶようになっていた(さすがにカーは言わない…)。たぶん、熱いスープを飲んだときの熱さと、辛さと、それがのどから食道を通っていくときの感じを、おいしいとか、熱いではなく、一種の「心地よさ」として知覚するようになっていたということだろう。それと同時に、あの「カー」という音もそれほどいやではなくなってきた。
生活の中で新しいことばに出会う。生活の中の様々な経験や記憶がそのことばと結びつき、また自分の身体から出てくる。そのことが、自分の感覚さえも変えてしまう可能性を持つことに気づいたきっかけでもあった。

「エクソフォニー」とは、母語の外に出た状態一般を指す概念だという。多和田は、「わたしはたくさんの言語を学習するということ自体にはそれほど興味がない。言葉そのものよりも二か国語の間の狭間そのものが大切であるような気がする。」という。また、別のところでも「わたしは境界を越えたいのではなくて、境界の住人になりたいのだ」と書いている。

そう思って見返すと、この本の中にはいろいろな「狭間」が書かれている。
「創作のことば」と「生活のことば」の狭間、「声に出されたことば」と「書かれたことば」の狭間、「心」と「身体」の狭間。この本に描かれた数々の狭間と、その狭間の未分化な状態の描写が、私に、自分と人、自分とモノとの間の境界がはっきりしない、子どものときの感覚を想起させたのかもしれない。
この本と出合ったのは、日本語教師になるときでも、研究をはじめるときでもないので、この本が何かの転機やきっかけになったわけではない。私の中の何かを劇的に変えたというわけでもない。
ただ、この本はいつも、私にも母語の外に出たことがあることを思い出させてくれる。また、私自身が様々なものの狭間に生きていたこと、今この瞬間も狭間を生きていることを教えてくれる。私の主なフィールドは、日本語を使って生活をする人が生きている場だ。そこには、母語の外に出る旅を続けている人たちがいる(自分自身も含めて)。既存の評価軸では測ることのできないことばと私たちの関係を、常に思い出させてくれるこの本は、やはり、自分の日々の実践に、研究と分かちがたく結びついているといるのだろうと思う。

紹介した人:おおひら さき

紹介した本の情報はこちらから(Amazon)

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