自分の学校をつくる
松田未知

オーストラリア北東部に位置するケアンズ。熱帯雨林と珊瑚礁に囲まれた小さな街で、私は小さな日本語学校を始めました。

日本語教育との出会い

私が初めて日本語教師という仕事を知ったのは高校生のときでした。母の友人の中に宣教師に日本語を教えている人がいて、おもしろそうだと思ったのが始まりでした。進学先を選ぶときには迷わず国文科を選びました。その国文科でオリエンテーションの日に「今年から日本語教育系というコースができた」と言われ、もうこれは神様が私に日本語教師になれと仰っているのだと舞い上がったのを覚えています。

 

大学卒業後、国際日本語普及協会に就職し、Japanese for Busy Peopleシリーズを世に生み出した先輩方から手取り足取り仕事を教えていただきました。初めの三年間をこの機関で先輩方と過ごすことができて、私は幸運だったと思います。

 

オーストラリアに渡航したのは、独身で身軽なうちに一度は海外で働いてみるのもいいかもしれないと思ったからでした。国際交流基金が当時行っていた青年日本語教師派遣のプログラムでオーストラリアに渡りました。そこでオーストラリアが気に入ってしまって任期終了後に大学院に残り、永住ビザを取り、そのままタスマニア州の大学の仕事を始めました。

 

日本語学校を立ち上げたいきさつ

自分で学校を立ち上げた、というと、綿密に計画を立てて実行に移したのかと思われるかもしれませんが、実際は全く何も考えていませんでした。目の前にある問題を一つずつ解決していった結果、こういう形に落ち着いたというのが正直なところです。

 

オーストラリアに移住後数年して、家庭の事情でタスマニア州を離れ、知り合いも誰もいないクイーンズランド州ケアンズ市に引っ越すことになりました。

 

ケアンズ市には80年代にNihino Japanese Schoolという日本語学校があったのですが、バブル崩壊後英会話スクールに買い取られ、私がケアンズに住み始めたころは英会話スクールの付属日本語教室という形で存続していました。そこではプロの日本語教師はおらず、英会話コースにいる日本人留学生が教えているという形でした。そこに履歴書を持ち込み、私のケアンズでの日本語教師生活が始まりました。そこでは好きなようにやらせてもらえたので日本語コースのプログラムを書き直し、結果的に生徒数はかなり増えました。うまくいっていたと思ったのですが、この英会話スクールが郊外へ移転するのを機に日本語部門は閉鎖されてしまいました。

 

ところが学習者の方から自宅で教室を続けてほしいという声が上がり、自宅の離れで教室を続けることになりました。少額とはいえ料金が発生するので事業登録をして、自営業として体裁を整えることになりました。そのとき、たまたま元学習者の中にウエブデザイナーの方がいて、格安でウエブサイトを作成してくれました。その方の提案で、学校名は検索キーワードを三つ並べただけの「Learn Japanese Cairns」に決まりました。ロゴは、グラフィックデザイナーをしている生徒さんがプレゼントしてくれました。

初期投資はテーブル一つとパイプ椅子4つ、ホワイトボードにプリンターだけでした。こうして学習者3名で小さな日本語学校がスタートしました。

 

初めは食べていけるレベルの収入はもちろんなく、週に一度、大学付属の英語学校で事務のアルバイトをしていました。アルバイトをしていたときには気づかなかったのですが、このときの事務経験がその後の学校経営に非常に役に立ちました。

 

本業の方も既存の顧客が辞めずに続けてくれるので、新規のクラスが始まるたびにクラス数は増えていき、半年後にはある程度食べていけるぐらいまでには成長しました。

 

そんなある日、市役所から突然の訪問を受け、住宅用のエリアでは商業活動ができないということを知りました。日本では自宅でこども英会話とか書道教室とかピアノ教室とか行われているので考えもしなかったのですが、オーストラリアでは居住用の地域と商業区域、工業区域というように用途が指定されているとのことでした。

 

仕方がない、廃業するか、と考えたのですが、学習者の方たちから商業用のビルに移転して続けてほしいという声が上がりました。そして中級クラスに来ていた不動産業者の方が物件を紹介してくださり、ケアンズ市の中心部にあるビルの一室を借りることができました。

 

こうして何とか一人で学校を続けていたのですが、グループレッスンの時間はどうしてもアフターファイブの時間帯になってしまうのですが、月~金で2クラスずつ入れても10クラスまでしか入れることができず、新規のクラスを募集するのがむずかしくなってしまいました。

 

そんなとき、たまたま「日本語教師の資格を取ったけれど経験がないので授業を見学させてほしい」という日本人女性が続けて二人現れ、見るだけというのも何なので教え方の研修もということになり、結局雇用して授業を担当してもらうことになりました。開業3年目辺りで在籍者120名ほどの規模に成長しました。

 

順調に成長していると思っていた矢先、講師の一人に急に辞めたいと言われてしまいました。その人が働いてくれるのを頼りにクラスを増やしてしまったし、こんな田舎町で資格をもった日本語の先生なんてすぐには見つからない。仕方なく事業を縮小することにしました。残されたクラスを統合してクラス数を減らし、新規クラスの募集をしばらく止めるなどして、在籍者数を80名ほどに減らしてその状態をキープすることで乗り切りました。ここで学んだのは、ビジネスは拡大し続ける必要などないということでした。在籍者数を増やすことより、健康な状態で回していくことの方が重要なのだと学びました。

 

さて、やっと安定してきたと思ったころに、実家の父が要介護になってしまいました。事業を畳んで帰国しようか真剣に悩みましたが、結局閉校するのではなく、オンラインでリモート経営してみることにしました。ケアンズの教室の運営はスタッフに任せ、自分は実家でオンラインレッスンをしてリモート経営という形を二か月間行いました。幸い父の介護は訪問介護サービスを利用してほとんど問題がなくなったので、二か月だけでケアンズの現場に戻ることができました。このときにオンラインレッスンを実験できたこと、オンライン決済などのシステムを整えたことが後のコロナ禍の際に非常に役に立ちました。


 

これから・・・

こんな感じで何のビジネスプランもないまま進んできてしまいましたが、立ち上げから13年、倒産せずにまだ続いています。すべて一緒に学んできた学習者の皆さんと支えてくれているスタッフの力です。問題にぶつかり、扉が閉ざされたような思いだったことも、今振り返ると、次に来る良いことにちゃんと繋がっていたように思います。新米の日本語教師としてオーストラリアに来た私ですが、いつの間にか日本で暮らした年月よりオーストラリアで過ごした時間のほうが長くなってしまいました。日豪両方のことばと文化を知っている、どちら側にも立てる存在として、学習者のサポートをこれからも続けたいと願っています。