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書名:複数の言語で生きて死ぬ
(くろしお出版、2022.4.12)
 
I ka ‘ōlelo no ke ola, I ka ‘ōlelo nō ka make.
(言語のなかに生があり、言語のなかに死がある)

山本 冴里
(山口大学)

 複数の言語で生きる日々は、現代の都市生活においてありふれている。世界中のどこの大都市であろうと、その土地の国語・公用語以外の文字をまったく目にせず、それ以外の音を聞かずに一日を終えることなど、とうにできなくなっている。街角の広告で、外から入った言葉を自分の慣れた文字で見る。食料品のパッケージに見慣れない文字がうつる。すれちがう誰かが、耳慣れない音、自分には意味のとれない音を出して賑やかに喋っている。外語はちらりと目にする程度だという人から、生活の大半を自身にとって第二、第三の言語を混ぜて、くるくると変わる万華鏡の花を咲かせながら暮らす人まで、程度の差はあるにしても、大都市で人は、複雑で多様に入り組んだ、様々な言語と生きている。

 それでもまだ、ひとりひとりの個別的な人間にとっては、世界に七千以上あるという言語のほとんどが未知のままだ。慣れない言語を学ぶこと。それは、よそ者としてふたたび世界に入っていく貴重な経験である。私は大学で、学生たちがそれぞれ新たな目標言語をさだめ自律的に学ぶという授業を持っているが、その授業でスワヒリ語に取り組んだある学生は、最終レポートのなかで次のような一文を書いていた。
 言語の出会いとは同時に文化の出会いでもあった。(中略)調べていく中で知ったケニアや
タンザニアの独自の生活や風習はどれも日本で暮らす私にとっては思いもかけないようなもの
ばかりで、いつも新鮮な驚きがあった。スワヒリ語を学びながら、これまで未知の世界であっ
た遠く離れたアフリカの地域に思いを馳せ、彼らの暮らしを想像するようになった。スワヒリ
語でPolePoleという言語がある。ゆっくりいこうよ、という意味で、(中略)この言葉が、私
はスワヒリ語で一番のお気に入りである。出会ったとき、いつも何かに追われている自分の生
活を振り返って思わずハッとなってしまった。価値観が揺らいだ、は過言かもしれないがそれ
ほど影響を受けたことは間違いない。言語を知り、文化を知り、彼らの価値観を知った。学ん
だこと、得たことを端的に言い表すのは難しいが、とにかく、スワヒリ語を勉強してよかった
と心から思う。
 日本で数ヶ月スワヒリ語を学んでも、直接的な「得」は、おそらくは何もない。その分、TOEICの資格試験対策でもしていたほうがよほど、可視化しやすい「成果」が得られるのかもしれない。けれど、最後の「スワヒリ語を勉強してよかったと心から思う」という文のなかには、数値では決してはかることのできない何かがきらめいている。この学生が体験したような意味において、自分が慣れ親しみ当然としてきた言語を離れ、新たな言語世界に入っていくことは……旅に似ている。

 そこには悦びがある。けれどそこではまた、不穏なことも起こる。

 旅をめぐる人間の体験と、複数言語をめぐる人間の体験は、ときに共鳴する。とりわけ移動が自発的なものでなく強いられたものであり、なおかつ自我をめぐる認識の連続性を無理矢理に断たれたとき(たとえば難民)には、なおさらだ。そうした移動にともなって言語学習が必要になるとしたら、それはもはや習得の歓びよりも怒りや絶望をともないかねない体験である。というのも強制された言語習得は、母文化や母語の剥奪と表裏一体のものとして体験されるからだ。自我が、その安全を保障してくれていた母体から追放される。

 つまり旅立ちも新たな言語学習の開始も、その社会的・個人的文脈によって、持ち得る意味は様々であり、その幾つかは相反するということになる。自我を確立する端緒になる反面で喪失のきっかけに、自由のはじまりであると同時に疎外に、何かを獲得する経験であると同時に、何かを剥奪される経験になるかもしれない。

 本書『複数の言語で生きて死ぬ』も、そうした、一見相反するテーマを扱った章が多い。たとえば、言語の数が減るということと(1章)、増えるということ(2章)。複数言語使用の「自由さ」と「不自由さ」、伝わらないことの「豊かさ」と「困難さ」(7章)。そして、それでも、相反する事柄を作りだす様々な要素を繋ぎ、強固な境界を揺らし広げ、「あいだ」で、線ではなく立体的な場としての境界に生きることについての章(5章、10章)。

 本書はまた、読むうちに、そのあちこちに、「複数の言語で生きて死ぬ」人々の持つ輝きが見えるはずだ(とくに8、9章)。けれども同時に、そこには戦争に傷つけられ、もがく人も描かれている。戦争を正面から扱ったのは第3章だけだけれど、他に、4、5、6、8、10章でも戦争は重要な背景となっている。線としての境界をきりきりと引き絞る戦争はいつも、「あいだ」に生きることを許さないから、「あいだ」で生きようとすることは、平和を、非暴力を希求することでもあると私は思う。この春(2022年)から、この本を使って授業を行っている(※)が、学生たちのなかには、読みながら、今のロシアとウクライナの状況を重ね合わせた、という人が多かった。
 各章の章題と扉の案内は次の通りだ。それぞれの章末には「読書案内」があり、くろしお出版のウェブサイトからは「さらに考えるために」という資料がアクセスできる。
 
第1章    夢を話せない―言語の数が減るということ
    (山本冴里)
     7000以上も数えられている言語の数が減る場合とは。
     鍵になるのは、支配―被支配の関係と、言語に冠された後光のようなものだ。言語の継承が
     途切れるとき、何が起こるのか。
 
第2章    夜のパピヨン―言語の数が増えるということ
    (山本冴里)
     言語の数が増えるとは。名づけと区分の結果として増える時もある。しかし、新たな言語が
     創られることで増える場合もある。なぜなら、人間は創造的だから。
 
第3章    移民と戦争の記憶―ことばが海を渡る
    (福島青史)
     ブラジルに、ウズベキスタンに、日本に、パラオにと視点を移しながら、「複数のことばで
     隔てられ、つながってきた」家族の歴史と、より大きな人間集団の歴史をたどる。
 
第4章    ペレヒルと言ってみろ―「隔てる」ものとしてのことば
    (山本冴里)
    「われわれの一員」と「排除と虐殺の対象」とを外見からは判断できないとき、歴史上幾度
     も利用されてきたのは、何らかの言葉を発音させることだった。
 
第5章    「あいだ」に、いる―言語の交差域への誘い
    (有田佳代子)
     強固な境界の「あいだ」を生きた人、「あいだ」を生きざるをえなかった人たちの物語が、
     そこに生きることへと私たちを誘う。
 
第6章     彼を取り巻く世界は、ほとんど無に近いくらいに縮んでしまった―ことばの断絶と孤独
    (山本冴里)
     ことばを理解できず理解してもらえないことで、人はどんな状況に陥るのか。まわりと応答
     できるということが、存在として対等になりうることへの道を拓く。
 
第7章    「伝わらない」不自由さと豊かさ―複数の言語で生きるという現実
    (松井孝浩)
     複数の言語で生きる人々と暮らすなかで筆者の身体に蓄積される経験。「自由さ」と「不自
     由さ」が、「豊かさ」と「困難さ」が分かちがたく結びつく。
 
第8章    内戦下、日本語とともに生きる―ことばを学ぶ意味
    (市嶋典子)
     命の危険にさらされる内戦下のシリアで、日本語を学び続ける女性へのインタビュー。「生
     き抜くための希望」、「自身の存在意義の証」としての日本語学習。
 
第9章    「韓国語は忘れました」―人にとって母語とは何か
    (鄭京姫)
     複数の言語を知り、学び、忘れ、紡ぎながら生きる女性の人生。そこにあるのは「忘れ去ら
     れた言語」、そして「歩み寄ることば」。既存の「母語」「外国語」の意味が問い直され
     る。
 
第10章  こうもりは裏切り者か?―他者のことばを使う
    (山本冴里)
     複言語能力を持つ人は時に、鳥からも獣からも追われるこうもり(イソップ物語)と似た状
     況に追いこまれる。しかし、こうもりこそが希望となる状況もある。
 
終章   複数の言語で生き死にするこということ―人間性の回復をめざして
    (細川英雄)
    「支配―被支配の関係」「集団から個へ」「対等と自由のための境界」といったキーワード
     で、本書全体をつなげる糸を通す。最終的に問われるのは、「他者とともにあるとはどうい
     うことか」という問いだ。
 
 ハワイのことわざに、「I ka ‘ōlelo no ke ola, I ka ‘ōlelo nō ka make.(言語のなかに生があり、言語のなかに死がある)」というものがあるらしい。本書『複数の言語で生きて死ぬ』は、一言でいえば、ここでの「言語」をつねに複数のものとして捉えつつ、複数言語と絡みあう人間の生と死について、五人の筆者が、十の小テーマをめぐって省察したものである。終章「複数の言語で生き死にするということ――人間性の回復をめざして」では、恩師 細川英雄先生が、それまでの10章全体を幾つかの観点から論じ、前へと押し出してくださった。
 
※私自身の実践は、学部正規生を対象とした授業(反転授業で実施しています)ですが、留学生対象日本語クラスでも、上級レベルであれば、『複数の言語で生きて死ぬ』を教科書として採用してくださったところもあります。

授業で教科書として採用される方には、希望があれば授業用資料を共有いたしますので、yamamoto.saeri*gmail.comまでご連絡ください(*を@に置き換えてください)。
 
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