しんちゃんの教師物語(2)
王さん(実名、でも王さんは佐藤のようにたくさんいるからたぶん大丈夫)に出会ったのは、
大学の3年生の時に入ったゼミででした。
私のゼミの先生は私がゼミに入る前の年にアメリカで交換教授をされていたのですが、
アメリカでたくさんの人にお世話になったから、
その恩返しの意味も含めて留学生をたくさんゼミに入れたいと思われたそうです。
私がゼミに入ると、先生が一年交換教授で大学を離れていらっしゃったため先輩はおらず、
日本人の大学3年生は私を含め4人、留学生は院生も含め5名というこじんまりとしたゼミでした。
留学生は韓国、フィリピン、台湾からの学生が一人ずつと中国からの学生が2名(そのうち一人が王さん)でしたが、
フィリピンからの留学生はほとんど日本語ができず、
先生とほかの留学生(ときには私たちも)が英語で助けてあげていました。
彼女は日本語でコミュニケーションができなかったから孤立していたのかというと、
そういうわけでもなくいつもニコニコして座っていて、
ゼミにはいつも何かゆったりとした心地よい空気が流れていました。
今考えてみるとこれは先生のお人柄そのものだったのではないかと思います。
わたしたちは、ゼミでは基本的には日本語で会話をしていたと思いますが、英語や中国語も飛び交っていたのでしょう。
今となっては何語で話していたのかは全く思い出せませんが、
広瀬川で芋煮(里芋の入った豚汁のようなもの?)をしたり、先生のお宅にお邪魔したり、
ときどき国分町で飲み会をしたりと本当に楽しい思い出ばかりが思い出されます。
とある有名な人(だれか忘れてしまいました)が、
人は何をどう言われたかは忘れてしまってもそのときに感じた気持ちだけは残ると言ったそうですが、
今本当にそう思います。
私が大学生の時には、中曽根首相の留学生受け入れ10万人計画が打ち出されました。
その中でチューター制度というものがありましたが、
それは(私の記憶では)留学生一人につき日本人一人をつけ、週に一回会う、
そして、日本人学生は留学生の日本語の面倒を見る、
もし、留学生が日本語が上手だった場合でも日本人の友だちはできにくいだろうから、
週一回会って友達としておしゃべりをして、日本人学生はチューター料をもらうといったようなものだったと思います。
私は、ある日、先生に呼ばれ「佐藤くん、王さんのチューターをお願いしますね」と言われ、
王さんとは週一回大学で会うことになりました。
王さんは日本語がとても上手で私が教えることなどは何もありませんでした。
彼女は私といっしょでおしゃべり好きでいつもニコニコしていました。
いつも会うと、二人でいろいろなことを話し、あっという間に1時間が終わってしまいました。
私は正直こんなに楽しませてもらって、おまけにお金をもらっていいのかと思っていました。
王さんと話した内容で今でも私が覚えているのは、大家さんは旅行に行くといつもお土産をくれるが、
もらいっぱなしでどうしたらいいのかわからないという王さんの相談です。
王さんは、せっかく持ってきてくれたのにもらわないわけにもいかないし、
でももらいすぎじゃないかとちょっと困った様子でした。
二人でああでもないこうでもないと話し、
結局王さんが旅行に行った時にお土産を買って渡せばいいのではないかという結論に落ち着いたように記憶しています。
でも、そこに至るまでに、どんなものをもらったかとか、大家さんの性格はどんな感じかとか、
いつもどうやってお土産を持ってくるかとかいろいろ真剣に話しました。
何度か会ううちに、王さんの子供の頃の話になりました。
(私も王さんにいろいろ話したかと思うのですが、私が彼女に何を話したかは、今となっては全く覚えていません!)
王さんの家は超音楽エリート一家だったそうですが、王さんが子どもの頃、中国で文化大革命があり、
地方に引っ越せざるを得なくなって、そこでは石を投げられたそうです。
そんな個人的な話を聞くたびに、
私の中での中国は、料理のおいしい歴史の長い国というステレオタイプ的なイメージから、
友人である王さんの生まれ育った国というもっと具体化したイメージに変わっていきました。
そして、それまで試験のために覚えることがたくさんある大変な科目としてしか認識していなかった歴史が生きたものとなり、
ニュースなどで中国のことを見てももっともっと身近に、
ある意味、自分ごととして中国のことを捉えられるように変化していきました。
もっといろいろなことを知りたいと思い、中国、アジアと日本の関係の歴史の本を貪るように、
ときには寝る間も惜しんで本を読みました。
そこには自分の知らなかったことだけでなく、教室で習ったのとは異なった歴史もありました。
そして、この目でアジアを見てみようと、
大学卒業前の(二回目の)海外旅行ではアジアをバックパックを背負って旅することにしたのです。
しんちゃんはまたもや青春18切符とともに(もちろん、実家のある名古屋から九州までですが(笑))
アジアに旅立つことになったのです。
つづく
(後日談)
大学を卒業してしばらく経った頃、東京で王さんに会いました。
そのときに彼女が大学時代の私との会話は大変役に立ったと語ってくれました。
嬉しくなってその理由を聞くと、私が早口でよく話すので、
私の日本語が聞き取れれば、他の日本人の日本語はいとも簡単に聞き取れるからだそうです(笑)。
そういえば、小学校の時はクラスのおしゃべりチャンピオンでした。
大学時代は、私の乗っている中古車のラジオが壊れていたのですが、
友人にお前の車にラジオはいらない、お前がラジオだと言われたこともあります(そして、消せないラジオだとも….とほほ)。