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​自著を語る翻訳本編
言語教師教育論
境界なき時代の「知る・分析する・認識する・為す・見る」教師
[B. Kumaravadivelu
 著 Language Teacher Education for a Global Society: A Modular Model for Knowing, Analyzing, Recognizing, Doing, and Seeingの全訳]
(春風社、2022.2.28)
 
訳者鼎談―出版を振り返って
南浦涼介・瀬尾匡輝・田嶋美砂子

 2023年2月のある日、南浦・瀬尾・田嶋はZOOM上で久々に集い、約1年前の訳書出版について語り合いました。

―訳書への反響

田嶋:出版されてから約1年ですが、その間に心境の変化であるとか、特に翻訳に関するメタ的なところとか、周りからの反響とか、ありましたか。

瀬尾:内容的には結構読みやすい本だとは思うんですよね。「買いましたよ」っていうのは何人かに言われました。

南浦:あまり売り上げとして伸びたという実感はないですね。でも、SNSで大学院生の方が紹介してくださっているのを見たりしました。言語教育系の人が。読みやすくてよかったみたいに書いてあるのは嬉しかったです。

 

田嶋:私の留学時代の知人で、タイトルとか内容に惹かれて買ったという高校教員も。

 

瀬尾:いいですね。翻訳の企画の段階で、中学校とか高校とかの先生に届けばいいねみたいな話をしてたから、そこに届いてるのがいいですね。

―訳書を出版するということ

田嶋:最近、周りで翻訳に関わってるって人が増えた気がして。例えば、この本の文献、日本語に訳されている場合は、その日本語の文献も付けましょうってことで、探したじゃないですか、私たち。それで、年代の傾向がある気がするってなって。昔は翻訳本いっぱいあったのに、いつの頃からか、出なくなってて。

瀬尾:90年代初めで終わってるみたいな話でしたよね。

田嶋:この前、ALCE関係の研究仲間に会ったんですよ。そのときに、業績面では翻訳が評価されなくて、もうみんな論文論文みたいになっちゃって、翻訳になかなかいかなかったところが、ここへ来て何らかの理由でまた大切にされてきたのかな? なんて話もして。

 

瀬尾:今、AI翻訳で簡単に英語の文献も読めるようになっているのに、なんでこんなに翻訳の需要が高まってるんですかね。

 

南浦:AI翻訳があるから、手を出しやすくなったんじゃないんですかね。

 

瀬尾:なるほど。研究者側がってことなんですね。

 

南浦:ただ、今、過渡期だから、それを使って、でも、自分で手作り翻訳をきちんとしたほうが売れる、もっと読みやすいっていうのも多分、一理あるかなと思うけど。これは今、完全にAIとの競争になっていて、5年後はどうなるか分からないですね。

 

瀬尾:そのうち英語の本をパッと開ければ、全部翻訳されてるパターンもあり得そうですね。

 

南浦:その中で、付加価値を付けるって大事だなとは思います。座談会とか。そうやって、どういう意図が、意味がここにあるのかをちゃんと書くとか、そういうのがあるのは1つの方向性になるだろうなとはちょっと思ったんですけどね。

 

瀬尾:確かに。ただ翻訳しただけじゃなくてってことですね。むしろ、このクマラヴァディヴェルの本、日本の文脈に落とし入れてるのがいいですよね。座談会がメインですけど。それがあるから、読み手にとっても、いいんだろうなとは思います。

 

田嶋:最後のタスクをやるっていうのを実践したのが座談会でしたよね。別にモデルってわけではないけども、1つの例を示せたっていうのはよかったかもしれない。

 

―機械翻訳

南浦:僕はやっぱり英語に自信がもともとないので、いまだに迷いますけど、でも、翻訳機はサポートとしてはやっぱり使いました。ただ必ず、最低限2つの翻訳機を使って、最終的には間主観的に自分の目と頭で判断するっていうことをしています。必ず複数の翻訳機にかけて、大きな方向性を見据えて、あとは文章を見ながら自分にしっくりくる言葉に変えていくという形をとっています。それでもやっぱりサポートがあることの大きさはあるなと思います。でも、プロの人からすると駄目なのかなと思ったり。

 

瀬尾:翻訳機を使っても、そのまま使ってるわけではないんですよね。だから、自分の言葉なのかなと思ったりはしますね。

 

田嶋:その辺のことが最近、私も気になってて、それでALCEのフォーラム論文に行きついたんだけども。尾辻さん(注:尾辻恵美さん)も人間以外のエージェンシーみたいなところに今、興味があるから、2人でよくその話をしていて、今回のALCE年次大会テーマのコンヴィヴィアリティ、コンヴィヴィアルなテクノロジーみたいなところに、2人の関心がちょうど別方向から合わさってっていう。だから、機械と人間との共生。共生っていうと、簡単な言葉で終わっちゃうんだけども、共に生きるみたいなところを考え始めてますよね。

 

南浦:眼鏡と同じなので、やっぱり。大事だなって。あったらいいなって。もうちょっと身に付けられるように、身近に身に付けられるといいよなっていうふうには。今は、まだ望遠鏡みたいな感じになってて。装着に時間がかかるというか。フィットしてないので、翻訳機とかが。

 

瀬尾:やりとりが伴うものって、まだまだAIではできてないだろうなとは思いますよね。

 

田嶋:別のとこでも言ったんだけど、ダチョウ倶楽部の「押すなよ、押すなよ」っていうのは「押してくれ」って意味じゃないですか。だけど、「押すなよ、押すなよ」は本当に文字通り「押すなよ」であって、彼らの笑いの中の「いいときで押してくれ」っていうところまではAIは分からないと、工学部の先生が話していて。そういう話も面白いなと思って。だから、機械が人間を凌駕する/しないみたいな話もあるけども、そんな単純なことでもないのかなって。

 

瀬尾:ディープラーニングしても習得できないんですね。ここまで理解できてもっていうのがあるんですね 1

 

田嶋:なので、自分が工学部にいる意義って何だろうって思ってて。何となく自分は部外者っていうか、分野の違う人間って思ってたんだけど、工学の先生と語学系がやれることって、視点を変えると結構いろいろあるんじゃないかなっていうのは、ちょっと感じ始めています。

 

南浦:いいですね。でも、今の話のコンヴィヴィアルって、そういうとこにつながるんだなっていうのは、なるほどなって思いました。

(と、南浦がここで、キーボードを打ち始め……)

 

南浦:ちなみに今、田嶋さんが言ったダチョウ倶楽部のこと、ちょっと気になったので。ChatGPTに入れてみました。

 

田嶋:今、流行ってますね。ChatGPTと学問の行く末、それも気になる。

 

南浦:気になるんですけど。今、入れてみたら、「ダチョウ倶楽部の『押すなよ』の意味は、特定のグループというのが共通の意味を目的語に示して……」

 

瀬尾:どういうことだ。

 

南浦:意味が分からないな。まだやっぱりちょっと苦手っぽいですね。

―誰が訳書を出版し得るのか

南浦:でも、本当にそう考えていくと、翻訳っていう文化も、今まではどちらかというと、やっぱり専門家の領域──特にその専門家の指す意味は、対象の言語に長けた人っていうことで。その専門家の専売特許っていうか、ある意味で既得権でもあるのかもしれないですね。でも、その部分がコンヴィヴィアルに機械を実装させていくっていうことを通して見たときに、よく言えば、そこに関われる人の裾野を広げるっていうことにもなるかもしれないし。でも、裾野が広がっても、社会的責任みたいなのは多分消えない。これまで、専門家であると同時に社会的責任を持てる、いい意味での権威者でもある。権力性って意味じゃなくて、専門的権威を持っているっていうところが担保されていたのに、そこが崩れたときに、どういうふうに責任を担保するのかっていうのは、もしかすると今後、大きな課題なのかなって気がする。

 

田嶋:確かに。自分の分野外のものは英語として読めても、バックグラウンドがなくて分からないから、誤訳につながったり。みんなが手を出せるものになりつつあるから、逆に専門性が必要になってくるということもあるかもしれない。

 

瀬尾:専門性って考えたときに、言語だけではないんでしょうね。誰でも翻訳に手を付けやすいけれども、それを読み取るときに、その分野について知っとかないと訳せないだろうし……。でも、どうなんでしょうね? 田嶋さんの言うように、一部の知恵を持った人しかできなくなっていくのかとか、なっていかないとか、それもそれで問題だろうし。言いながら、もやもやしてきました。

 

田嶋:あと、この3人で次やる? どうする? みたいなときに、時間は有限だからねって話もあって、本当によい本をすべて翻訳できるかっていうと、やっぱりそうでもなかったりするから、何を選ぶかとか。そして、私たちが一教員、あるいは一研究者として、何をやりたいのかとか。自分の行くべき道と選ぶ本と、みたいなことも考えました。

 

瀬尾:田嶋さんがペニクックを訳したりするのは、やっぱりそこにパッションがあるからですよね。

 

田嶋:そうですね。日本の恩師の中村敬先生って方がペニクックであれ誰であれ、英語に対して批判的な書物が日本語で読めない、つまり翻訳本がないってことをずっと嘆いていらっしゃったのをそばで聞いていたから、チャンスがあればと思って。そしたら、ちょうどタイミング的に2001年の本の第2版が出て、ペニクック先生いわく、かなり書き換えて。多分2001年のときって、私が言うのもなんだけど、すごくトガッていて、辛口な批評だったんだけど、そこをマイルドにし、ちゃんと全方位に注意を払って、でも、言いたいことは言うみたいな内容に書き換えていて。なので、これは出すべきなんじゃないかなと思って。あと、自分が深く読んでちゃんと理解したい、その過程で産物ができれば、なおのことよいみたいな。そんな思いですね。

 

南浦:じっくり読むから、めっちゃ深く理解はできますよね。

 

田嶋:そうなんですよ。ところで、翻訳って、その著者と何かしらの縁があってやるとかっていうパターンなんですかね。教わってたとか。

 

南浦:そう。本当はそういうことが今までは多かったんだろうと思うんですよね。でも、そういう人は多分、そもそも翻訳しないっすよ。

 

田嶋:それに、だからこそ、さっきの話と同じで、そういう人だけが訳せる世の中でいいのかって言ったら、それもある種の特権っていうか。すごく興味深いですね、翻訳って。

―自分自身の実践

田嶋:この訳書を出した後、自分の授業はどうだいって思ったときに、工学部で工学の英語を教えるというミッションがあり、学生も本当は英語やりたくないけど必修だからやっとくかっていう状況の中で、どうせなら役に立つものを……とか言って、工学部生はこんな単語覚えとくといいよねとかってやっちゃってる中で、なんか訳したことと実践が乖離してませんかっていうのは、あります。

 

尾:何が一番乖離してるなって思いますか。

 

田嶋:シラバスに則ってやっちゃってる。クマラヴァディヴェルもシラバスに落とし込みましょうって、南浦さんがよくおっしゃる工学的なアプローチについて言及していて。そういう意味ではシラバス通りって別に悪いことではないと思うんだけど、型にはまってるって感じですかね。

 

南浦:1人でこういうのやるならいいんですけど、多分、同僚の人たちと一緒にやっていくと、そんなみんな、この本、読んでるわけじゃないし、なかなかそこは難しいところっていうのはいっぱいあるなっていうふうに思いますね。だから、それこそ、逆に次の職場に行ったときとかに、パッケージ化できないから、結果的に、いろいろ混ぜ合わせてやらざるを得ないみたいなところのほうが、むしろやりやすかったりするのかなみたいな気はするんですけれども。そもそものプログラムが政策とか言語とか文法とか教授法とか分かれているところで、しかも、それぞれの先生も、前、瀬尾さんも言ってましたけど、違う発想を持ってるみたいなときに、なかなか難しいところでもあるなっていうのは思います。

 

瀬尾:そうですね。

 

浦:工学的アプローチと羅生門的アプローチってよくいわれるものが出たときに、羅生門的アプローチっていうのが今、まさにクマラヴァディヴェルのやってるのがそうなんですけど。それは、工学的アプローチは専門性を問わない。だから、誰もができるっていう状態を志向するし、羅生門的アプローチは専門性を問う方にいくので、だから担い手に、そういう職人的気質をつくっていくっていうところが多分、セットになるんですよね。だから、教師教育がすごく重要になる。教師教育者の存在がすごく重要だし、だから、教師教育者の教育も必要になってくるんだと思います。

 

田嶋:その意味では、クマラヴァディヴェルの言語教師教育論に関する本を翻訳して出版したことで、ささやかな貢献ができていたら、うれしいですよね。あ、そろそろ時間が。今日はありがとうございました。

 

瀬尾:引き続き、よろしくお願いします。

 

南浦:こちらこそ。

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1 この座談会の書き起こし原稿を3人でチェックしていた折に、お笑い好きの瀬尾さんが新たに教えてくれたことがあります。ダチョウ倶楽部内では、「絶対に押すなよ」と、「絶対に」がつくと「押せ」を意味するらしいとのこと。「絶対に押すなよ」=「押せ」という学習なら、AIもできるのではないかといった話も出たことを付記しておきます(田嶋)。

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