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書名:日本語教師の省察的実践
―語りの現象学的分析とその記述を読む経験―

(春風社、2022.3.18)
 
「実践の記述を読む」ことの意義をめぐる私の経験
 
香月 裕介
(神戸学院大学)

 

本書の第1章「研究の出発点」に、私は自分の経験を書いた。それは、私が研究デザインに自分自身を組み込んでいるからである。これは、「この本の分析は私自身の解釈によってなされたものであり、分析対象である日本語教師の語り自体が、私とインタビュー相手とで相互に構築されたものである」という私自身のパラダイムに由来するものである。そのため、私という人間がどのような経緯でこの研究にたどり着いたのか、何に関心を持ち、何を考えながらインタビューや分析を行ったのかということは、研究を構成する不可欠な要素で、研究上の要請として書かなければならないものであった。

近年、本書のように研究者自身の経験を書き込むスタイルの研究を見かけることが増えてきている。とはいえ、やはりこうしたスタイルがまだ広く受け入れられているとは言いがたいように思う。実際、研究論文の「はじめに」の部分に自分の経験を書いて投稿したとき、「これは研究というより、エッセイに見えます」という査読コメントが返ってきたこともあった(「ムッ」としたけれど他のコメントも的確な指摘ばかりで、この研究論文はもちろん不採択だった)。それでも、こうして本にする機会をいただいて、それを読んでくれた方から「第1章を読んで泣いた」「自分の経験を思い返しながら読んだ」といったコメントをいただくと、研究上の要請とは別にして、第1章に自分の経験を書いたことには意義があったのだと思える。「第1章が一番面白かった」という、喜んでいいのか何とも難しいコメントをいただいたこともあったが、それでもやはり書いてよかったのである。

そして、今回、トガルの「自著を語る」に寄稿させていただく機会を得た。何を書こうか思案したが、やはりここは自分の経験という名の自己語りをするしかあるまい、ということで、第1章には書かなかった自分の話をしようと思う。書きたいのは、「実践の記述を読む」という本書の研究の中核をなす枠組みが、どのように自分の中でかたちづくられていったのかという話である。この本は、博士論文をもとに書籍化したものなので、博士論文執筆の話が主になる。以下、長くなるけれども最後までお付き合いいただければ幸いである。

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子どものときから、本を読むのが好きだった。外で友だちとドッヂボールをするのももちろん楽しかったけれども、図書館に行って一人で本を読むことも多かった。

歴史、恐竜、天体が好きだったので、それらに関する漫画や図鑑をよく読んだ。本の中には自分の知らない知識がたくさん書いてあって、その知識をどんどん頭の中に入れていくことが楽しくてたまらなかった。そのときは言語化できていなかったが、子どもながらに「知的興奮」を味わっていたのだろうと思う。


それらとは別によく読んでいたのは、フィクションの物語だった。本の中で展開される物語を読み耽りながら、私は、ムーミン谷の冬の寒さに思いを馳せ、ドリトル先生や動物たちと旅に出て、エルキュール・ポアロになったつもりで推理をした。もちろん、私はムーミン谷に行ったことはないし、動物たちと話はできないし、灰色の脳細胞を持っているわけでもない。それでも、本を読んで見たことも経験したこともない世界に触れると、まるで自分がその世界で同じ経験をしているような、自分が違う人間に生まれ変わっていくような、そんな高揚感を覚えたのだった。それは、幼い私にとっての最高の贅沢だった。

その後、大学生になり、少しずつ論文や学術書のような「研究」と呼ばれるものを読む機会が増えていった。論文や学術書の中には自分には到底思いつきそうにない理論や分析が書きめぐらされていて、そこから導かれる知見に頭を大きく揺すぶられることがたびたびあった。論文や学術書を読むということもまた、私にとって知的興奮を覚える刺激的な経験だった。読むことだけでなく、話を聞くことも同じだった。大学の「日本語教育実習」の授業では、時折、日本語教師をしている卒業生を招いて日本語教師の経験談を聞く機会があった。日本語教師を目指していた自分にとって、先輩が話す「日本語教師の経験」はとても面白かった。幼いころ物語を読み漁っていたときと同じように、行ったこともない遠い国で日本語を教える自分を想像して、毎回胸を躍らせていた。

しかしあるとき、「日本語教育実習」の授業が終わった後、同級生の友人が私にこんなことを言った。

「人の経験談を聞いて何になるんやろうね。別にそこで自分が教えるわけでもないんやから、意味なくない?」

彼が言っていることは至極もっともなように聞こえた。しかし一方で、「なんか違う」と私は思った。でも、その友人の言葉に対して、私は、

「う、うーん。でも、話聞くの楽しいよね。わくわくするやん。」

みたいな何とも見当外れの返事しかできなかった。「楽しいから、わくわくするから意味あるよ」という答えを友人が求めているのではないことはわかっていた。でも「じゃあどういう意味があるのか」という理路を友人が納得するように言語化することは、私にはできなかった。友人の言う通り、人の経験に触れることには、意味がないのだろうか。友人との他愛もないやりとりから生まれたこの疑問は、自分のなかにずっとくすぶり続けることになった。

大学を卒業してから、日本語教師として色々な経験を積み、喜んだり悩んだり頑張ったり失敗したりした(このへんは、第1章にもう少し詳しく書いた)。そして、その経験から、私は「個別の、多様な日本語教師の専門性」を明らかにしたいと思うようになり、博士課程に進学した。研究の枠組みについてああでもないこうでもないと思案した末に(このへんも、第1章にもう少し詳しく書いた)、私は現象学的分析という研究手法と出会い、話を聞いて経験を分析したいと思う相手、星野さんと足立さんに協力してもらうことになった。

私は、星野さんと足立さんの経験を日本語教師全体に当てはまるかたちで一般化するつもりはまったくなかった。あくまで、二人のそれぞれの実践を個別の経験として深く理解し、丁寧に記述したかった。理想としているのは、西村ユミさんの『語りかける身体』(名著なので、本書なんかより断然おすすめしたい)。自分は『語りかける身体』のようなものを書くんだ!と考えるだけで、どきどき胸が高鳴った。研究の枠組みが固まってきて自信がついてきた私は、意気揚々と博士課程のゼミで自分の研究計画を発表した。すると、指導教員の先生から、

「この博士論文の読み手として考えているのは誰ですか。日本語教師ではない人ですか。」

という質問を受けた。読み手は誰か、という質問をまったく想定していなかった私は、深く考えずに、

「日本語教師ではない人が読んでもいいんですけど、日本語教師の人に読んでほしいなと思っています。」

と答えた。この私の返答に、指導教員はすぐさま質問を重ねた。

「星野さんと足立さんの経験を博士論文として書いて、日本語教師の人がそれを読むことには、どんな意義があるんでしょうか。」

「そ、そうですね…。」

私は言葉に詰まり、質問に答えることができなかった。もっとも、指導教員は、私の研究計画に反対しているわけではなかった。実践を丁寧に記述することは重要で意義があるという私の考えにも共感してくれていた。しかし、私が書こうとしているのは博士号の審査がかかった学位論文である。その意義が、個人的な興味関心にとどまらず、実践的にも、そして学術的にも、明確に、説得力を持って説明されなければならないということを指導教員は指摘してくれていたのである。人の経験に触れることには、もっと具体的に言えば、自分の論文を読むことには、どのような意義があるのか。それは、自分が「楽しい」「わくわくする」ということだけでは足りない。私は、10年の時を経て再び同じ問いと向き合うことになったのである。

日本語教育において教師が経験を「語り合うこと」(ここには、「話すこと」と「聞くこと」が含まれる)の意義は、すぐに見つけられた。すでに、いくつかの研究の蓄積があったからである。一方、「読むこと」の意義が明確に示されているものは、日本語教育の論考からはなかなか見つけられなかった。日本語教育以外に目を向ければ、質的研究の意義を読み手の側から捉えるものがあったので、それを糸口に考えていくことにした。ただ、日本語教育では目にすることがないこの考え方を拝借して「意義は、読み手がそれぞれに判断します。読み手によって違います。読み手が判断するので私は与り知りません。」と博士論文で言うのは、曖昧であまりに無責任だと思った。読み手の側の意義を明確に示すために、さらなる理論武装と研究デザインの見直しが課題となった。

読むことの意義が明確にならないままではあったが、星野さんの語りの分析は進めていて、その分析をポスター発表できることになった。研究会の当日、多くの方が足を止めてくれたが、そのなかのお一人が、私にこんなコメントをくれた。

「この分析、おもしろいですね。この分析を星野さんが読んだら、何て言うだろう。読んでもらって、話を聞いてみるのもいいかもしれませんね。」

このコメントで、私はようやく気がついた。「そうか。分析したものを読んでもらって、それでどうだったかをさらに分析したらいいんだ。」と。星野さんと足立さんの語りを分析し記述するだけで終わらず、それを二人に読んでもらってさらに語りを得て分析すれば、何かわかるかもしれない。読むことの意義を先行研究で明確に示せないなら、自分で検証するしかないということである。粗削りでも発表してコメントをもらうことがいかに大事か、このときほど実感したことはなかった。

読むという行為まで研究デザインに入れることが決まれば、あとはその理路と妥当性を丁寧に説明し、理論武装していくだけだった。それまで現象学を軸に哲学的思想の勉強を幅広く続けていたことが、ここでものすごく役に立った。ヴァン=マーネンの記述を取っ掛かりにして、現象学と省察的実践をつなげることができ、読んだ後の語りを分析する枠組みとしてコルトハーヘンのALACTモデルがぴったりだということが見えてきた。省察的実践として研究を位置づければ、実践上の意義が明確になる。また、ハイデガーから解釈学を通してガダマーとつなぎ、さらに現象学的分析における「触発」という考え方も援用することで、学術的な意義にも結びつけることができた。こうして、理論的枠組みがパズルのようにはまってできあがっていった(本書の第4章で記述した部分)。迷わずある程度スムーズに進められたのは、先に博士号を取得した友人が「どんなに先が真っ暗で見えなくても、とにかく本を読みまくって勉強しろ。そしたら必ず光が見えてくるから。」と口酸っぱく言ってくれていたおかげだった。友人は、正しかった。ありがとう。

こうして、「人の経験に触れることの意義は何か」という10年越しの問いに、私は「読む」という観点から実践上の意義と学術的な意義を説明することで、(一応)解を出すことができた。

それでも、「読むことの意義」を考えるときに自分にとって根本にあるのは、きわめて個人的な意義、つまり、読んでいて自分が楽しいか、わくわくするかということであるように思う。いくら理論がしっかりしていても、面白い文章でなければ続きを読み進めたいとはなかなか思えないからである。

「第1章が一番面白かった」とコメントしてくれた先生は、そのコメントの後に続けて「質的研究を書くのには、読み手を惹きこむ書き手の技量も必要だよね」とも言っていた。これはつまり、自分は最終章まで読み手を惹きこむだけの技量がまだまだ足りないということである。子どものときに夢中になって読んだ図鑑や物語のように、読み手が自分の書いたものをわくわく楽しみながら読んでくれる。そんな分析と記述ができるようになるために、これからもたくさん質的研究を書こうと思う。

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