書名:日本語学習は本当に必要か
―多様な現場の葛藤とことばの教育―
(明石書店、2024.2.15)
神吉宇一
(武蔵野大学)
共編者の村田さんと、英語トラックの留学生のキャリア形成というテーマで科研費の研究についてやりとりしてる中で、「『日本語はいりません』って言われてみんな留学してくるのに、来たら『日本で生活するなら/就職するなら日本語は必要です』って言われるって、どういうことなんだろうね」って話をしたところから、本書の構想が持ち上がりました。
日本語が不要だというのは、国際語としての英語の強さやAIの発達によってますます強く主張されるようになってきています。私は、大学教員になる前に、AOTSという民間の財団で技術研修生や看護・介護従事者、企業の外国人社員の日本語教育のマネジメントに携わっていました。もう15年ほど前のことですが、その頃から本当に何度も企業関係者や中央省庁関係者から「日本語って本当に必要なの?」ということを問われました(注1)。当時、私はその問いにうまく答えることができませんでしたし、当時の上司だった春原憲一郎さんは、この問いに対して「5000年前、人類が文字を発明して以来〜」という話をしていましたが、一般の方には、この「5000年説」は難解で、多くの人を説得するには至りませんでした(注2)。
「日本語って本当に必要なの?」という問いは、その裏に「必要ないんじゃない?」という含意があります。そして「必要ないんじゃない?」という場合の根拠は、概ね「日本人が英語を話せばいい」「機械翻訳で対応可能」「仕事や生活で困っていない/本人にニーズがない」という3つが主たるものとして主張されると思います。
一方で、外国人には日本語が必要だということもまた強く主張されています。「日本語教育の推進に関する法律」が成立したのは、日本社会における外国人の受け入れや増加に対してさまざまな考えを持っている人たちが「外国人には日本語が必要だ」という一点のみで合意できたからです。日本語の必要性は、外国人労働者受け入れに際して日本語能力の指標を統一化しようというところに如実に現れています。また、たとえば日系四世の受け入れに関して、滞在延長するなら日本語能力を求めることなどにも現れています。これは、言い方を変えれば、外国人の受け入れを日本語によって選別、コントロールしようとしているわけです。そして、日本語ができれば受け入れてやるけれど、できなければ受け入れないという、ホスト国のメリットを追求した一方的な形で、日本語の必要性が主張されていると言えます。
他方で、「日本語が必要ない」という主張も「日本語が必要だ」という主張も、よく見てみると、その裏に「自分たちの受け入れ体制は大きくは変えなくていい」という思惑が見え隠れします。英語対応やAI対応は、日本社会側がわざわざ受け入れる体制を整えたり、日本語教育のためにお金や労力を割く必要はなく、既存のリソース(英語ができる人材の活用)やテクノロジーで対応すればいいということの現れと言えるのではないでしょうか。結局のところ、ホスト社会が自分たちの都合で外国人受け入れを促進する中で、自分たちができるだけ汗をかかなくていいように考えた結果が、「必要不要論争」の根っこにあるのではないかと思います。
このような社会的状況下で、日本語教育に携わる私たち自身が、日本語教育のあるべき形とその社会的意義についてしっかりと議論することが、今まで以上に求められていると感じています。日本語は必要ないということで、ことばやその教育が軽視されてしまう議論に回収されないように。また、日本語が必要だということが、外国人側への一方的な要求として、支配や抑圧につなげられないように。ことばとその教育が、共生社会をつくるにあたっての相互的・互恵的な形になることをどう実現していくか、まさに今、日本語教育/ことばの教育に携わる私たち自身に問われていることだと思います。
日本語って必要ないんじゃないか、日本語教育の専門家は不要ですよ、ボランティアがいっぱいいますからという議論に、私たちが正面から対峙するためにも、ことばの教育の意味と価値について、さらなる議論の活性化に本書が貢献できるといいなと考えています。
注
1 このことについては西口光一監修『一歩進んだ日本語教育概説』大阪大学出版会にも書いています。
2 5000年の話は拙著『日本語教育 学のデザイン』に「全身脱毛とヤツメウナギ」として所収されています。