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書名:対話することばの市民ーCEFRの思想から言語教育の未来へー
(ココ出版、2023.4)
 
ことばの活動は何のためにあるのか
―ウェルビーイング構想の、その先―

細川 英雄
(言語文化教育研究所八ヶ岳アカデメイア)

 

前著『「ことばの市民」になる―言語文化教育学の思想と実践(ココ出版2012)から
ちょうど10年目にあたる年に新しい論文集を編んだ。
タイトルを「対話することばの市民」とし、
フランスを中心とする言語教育のキーパーソンと文字通りの「対話」を試みることで、
CEFRの思想から言語教育の未来を展望しようというもくろみである。
まえがきにもふれたように、
欧州評議会による「ヨーロッパ言語共通参照枠」(CEFR)前夜ともいうべき
1995年から96年にかけてのパリ滞在経験が、
20年前の『日本語教育は何をめざすか』(明石書店2002)を生み、
それを引きつぐ形で上梓したのが10年前の『ことばの市民になる』である。
それからさらに10年、ことばと文化の統合、言語文化教育の実践研究、市民性形成のためのことばの教育、
と少しずつ視野を広げつつ、やっとたどり着いた地点で待っていたものは、
「ことばの活動は何のためにあるのか」という果てしのない問いであった。
この問いの自分なりの答えを、
ソクラテスの言う「善く生きる―Well-being」という概念のあることを想定した。
では、なぜことばの活動がWell-beingと結びつくのだろうか。
ここでは、そのような考え方に至ったわたし自身の背景を解読し、新刊の自著紹介としたい。


「よく生きる」とは、「よく考える」ことである。
考えるとは、複眼的検証の態度を貫くこと、そして、そのことは、

何よりも自分自身が自由であろうとすることの意志によって支えられている。

なぜなら、自由でなければ、目の前の現象に対して、批判的な目を持つことはできないからである。
自由であるための前提として、自分の考えを他者に向けてひらき、

他者との共通了解をめざして対話することが必要である。

この「自分をひらく」openの感覚と、「他者との共通了解」commonの感覚こそ、自分が何者であり、

何に価値を置いているのかを自ら見極めるための不可欠な要素となることを確認しよう。
このopenとcommonによる対話の連鎖を自らの中でどのように形成するか。

ここに人としての自由と自律のあり方が問われることになるのだ。


このような対話の活動によって人は、自己を知り他者とかかわるようになり、

そのことを通じて社会publicについて考えるようにもなる。

その過程で、人は、well-beingを体現することになるのではなかろうか。
すなわち、対話によって自分の価値観を知り、他者と共にどう生きるかを考えること、

これが「よく生きることwell-being」である。

その結果として、このwell-beingの感覚を持ったとき、個人一人ひとりは幸福になることができる、

だからこそ、そうした感覚を保障する社会をつくることこそ

ことばと文化の活動の究極的な目標といえるのではないかと私は考える。

言い換えれば、ことばの活動なくして、well-beingはあり得ないのだ。
ことばの活動によって個人は、さまざまな価値観に出会い、それを受け止めつつ、

自らの価値(観)を形成していく。

ことばの活動とは、そのような個人の価値観の形成の場において活動を公共にひらき、

他者への感謝の念をもってその場に立ち会うことを意味するのではないか。

それは、こうした価値観の形成には、

共生、つまり「共に生きる」という概念が前提となることをも意味している。
 

では、そのことばの活動を教えるとはどういうことなのか。
このとき、私たちは、そうした問いそれ自体の無力化に気づくことだろう。
なぜなら、活動そのものを「教える」ことはもはや不可能だからである。
だからこそ、私たちは、個人一人一人の価値・創造を共有する実践を構想しなければならないのだろう。

つまり、教育実践の場を、特定の情報・知識を与える場から、

それぞれの価値・創造を共有するための思考・対話の場へと変化させることである。

ここで振り返ると、さまざまな情報・知識は、外側から与えられるのではなく、

自らの活動の中で、むしろ自らの内側から湧き出てくるように体得されることがわかるからである。
そのためには、日常のあらゆる出来事と「私」との関わりに「テーマ」を見出し、

それを活動と捉える持続可能性へとつないでいくことが重要だろう。

このことにより、教室実践の概念も、おのずと変容を余儀なくされるに違いない。

それは、自己open・他者common・社会publicをつなぐ対話という活動であり、

そのことにより、各自の未来と公共性へのつながりも見えてくるはずである。
これは、未来に対しての問いでもあるため、

「どのようにすれば、この理念を実現できるか」というフィード・フォワードによって支えられている

と考えるべきだろう。
「このような失敗を繰り返さないために、どうすればいいのか」というフィード・バックによって

実践が鍛えられると従来指摘されてきたが、

実際はむしろは、前掲のような理念とそのデザインを示すことが重要であることに気づく。

なぜなら、活動をフィード・フォワードの視点で捉えなおすことは、未来を見据える視点であり、

言い換えれば、歴史を変えるための持続可能性ということだからである。
「ことばの活動は何のためにあるのか」という問いは、

従来の「教育実践」の概念を解体させる思想を包摂している。

今、私たちは、ことばを教える教育実践のあり方そのものをもう一度問い直さねばならない。

公共という概念によってそうした問いをどのように実現することができるのか、

ここに共生社会におけることばと文化の活動がめざす教育の未来があるとわたしは考えるからである。
 

※本稿の冒頭部分は、細川英雄さんが発行するメールマガジン『ルビュ「言語文化教育」』867号に掲載されている。

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