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このコーナーでは、みなさんの研究に影響を与えたバイブル的な作品(書籍、映像、演劇などなど何でも)を募集しています。分量は自由です。

#17 「きらびやかな用語」と「慎慮」による不断の対話 ―永井陽之助著『平和の代償』
佐野香織

 私は数年前から、「多文化共生」という語を使うことに戸惑いを感じていました。この語を使うことで、なにやら決まった認識やイメージを相手に植えつけてしまうような気がしていたことや、「そのように考えているのね」と他者から決めつけられてしまうのではないか、と考えていたからだと思います。


 しかし、最近になって、あえて「多文化共生」という語を、共に考えるためのきっかけのことばとして使うようになってきました。こうした「ことばの使用」を考える動機となり、あらためて現在の実践研究へのつながりを感じた本が、永井陽之助(国際政治学者)著『平和の代償』です。私は大学生時代、永井ゼミの最後に近いゼミ生でした。
 

 『平和の代償』は、『冷戦の起源』という著作とともに永井ゼミ生の基本書でした。正直、当時の私には本当に難しく、内容の理解ができていたかは疑問です。今から50年以上も前の著作で、描かれている状況は、キューバ危機、ベトナム戦争、米ソ中関係、冷戦構造、です。けれども内容は2022年現在にも置き換え可能だと思います。
 

 「何か平和になるためのすばらしい行動があり、それをすれば平和になる」という「全能の幻想」を大衆は持っているが、そんなものはまさに幻想にすぎない。「平和」を求めるならば、必ず代償があるもの。例えばそれは、「正義」よりも「平和」を優先させざるを得ない、というような、”悪”の度合いがより低いほうを考え続けながらその時々で複雑に選択していくようなこと。そして、その選択の理不尽さにも耐えて、けれども続けていくしかない。このような態度、「慎慮」(prudence)をもって不断の努力をするしかないのだ、という内容です。
 

 『平和の代償』についての当時の私の考えは、「それだけでは世界は平和にならない。新しい効果的な行動をしなければいけないのではないか」というものでした。まったく「全能の幻想」も「慎慮」も理解していなかったのです。けれども、永井先生が紡ぎ出すこれらの語を用いた議論は、「なんだか国際政治を語っている」感じがしたものでした。永井先生はゼミ生が勝手にあーでもない、こーでもない、と話したり、全く関係のない世間話をしたり、先生に疑問をぶつけたりするのを実に楽しそうに受けていました。しかし「回答」「正解」は何もありませんでした。いつもなんだかすっきりしないまま、この話ってつまりなんだったんだろう、と思いながら終わる不思議なゼミでした。
 

 政治とコミュニケーション、ことばに興味を持った私が卒論と進路の相談をしたときに、「そっち(言語)のことをやったらいいんじゃない」と言ってくださったこともありました。
けれども、当時永井先生のもとで大学院生として研究をしていた憧れの大先輩、中山俊宏さん(国際政治学者)が、飲み会だか食事会だかの席で、「政治と言語は本当に重要なテーマだけれど、気を付けたほうがいい」とアドバイスをくれたことが引っかかっていました。

 

 その中山さんが、『冷戦の起源』の復刻版(永井2013,中公クラッシックス)の解説に「「感染する思考 ―『冷戦の起源』の危うさについて」(中山2013)という論考を寄せられていました。この中で、永井先生のことばは「危険」であることを言語の2つの機能、1」認識機能、2)感情喚起機能を挙げて述べています。1)の認識機能は、学術で用いられる言葉、2)はその語を使うことによって感情が喚起されるような言葉、としています。そして、永井先生の『冷戦の起源』は、1)の機能よりも、戦略的に2)の機能を持つ「きらびやかな用語」を使うことによって、読み手の感情、認識を根底から揺さぶる「危険」性をもっている、だからこそ、その「危険」を承知しながら読み、考えていく必要がある、というものです。そう、あの当時の私はこのことばの「危険」性に気づかず、完全に飲み込まれていました。
 

 中山さんは「カオスをカオスで制する永井の知性」という言い方をしています。私はあのゼミの様子から、永井先生はゼミ生には「将来の日本を担うグローバル人材」のような「幻想」は求めず、しかし「カオスをカオスで楽しみ、認識を揺さぶり、考え続ける不断の慎慮」で指導なさっていたのだろうかと思います。
 

 最初の話に戻ります。私が「多文化共生」ということばを再び使い始めたきっかけは、この『平和の起源』の中にもありました。めざすべき正しいゴールがあることを示したいわけではありません。「多文化共生」という、よく見聞きする「きらびやかな用語」を使うことによって、問い直したり、他の人とどういうことなのかを考えたり、話したり、違うこともあるのではないかと探ったり、批判したり、されたり、そこから新しいことばをつくったりする、という不断の対話を続けていきたい、と思ったからなのかもしれません。

 

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紹介した人:​さの かおり