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このコーナーでは、みなさんの研究に影響を与えたバイブル的な作品(書籍、映像、演劇などなど何でも)を募集しています。分量は自由です。

#19 柄谷行人『日本近代文学の起源』*
武田 誠

この本との出会い

 

 この本は、大学で高校の国語の教員免許を取るために、学部3年生のときに履修していた日本文学概論の授業で教科書に指定されていたことがきっかけで知りました。言語学が専門だった私は、この授業を取らなければ、この本に出合うことも、柄谷行人という批評家もよく知らないまま今に至っていたことでしょう。今思うと、この科目の担当教員だった先生が、当時、柄谷を研究テーマにしており、いきおい担当科目でもこの本を教科書に指定されたのではないかと思います。どういうわけか学内の書店ではすぐに購入ができなかったため、日曜日に神保町の三省堂に講談社文芸文庫版を片道小一時間かけて、わざわざ買いに行ったのを思い出します。

 

確立と共に忘れさられる起源


 この本を読み始めると、その難解さに眩暈がしそうでした。私はもともと国語の教員を目指していたのではなく、取れるものは取っておこうという不謹慎な動機で教員免許の取得をしようとしていたため、文学書はほとんど読んでいませんでした。この本を最初に読んだとき、高校の文学史の資料集に出てくる有名な作家名がどうにか認識できる程度でした。また、洋の東西、学問領域を問わず、矢継ぎ早に出てくる人名や文献の数=柄谷の膨大な知識量に圧倒されました。
 日本文学概論の先生からは、「難しいかもしれないけれど、同じことを繰り返し言っているだけだから」と言われていました。その言葉を信じ、暇に飽かせて何度も何度も読んでいるうちに、この本で一貫して反復されている主張が徐々に見えてきました。それは、日本近代文学における「風景」「内面」「児童」などの概念は、一度確立されてしまうと、その起源が覆い隠されてしまうこと、これらの概念は、明治20年代(1890年代)に生じた「認識の転倒」によってもたらされたものであるということでした。

 一度、その主張が把握できると、理解不能だった内容が一気にわかったような気になったことを思い出します。それは、謎解きゲームの謎が解けたときのような興奮と満足感を伴う体験でした。大学4年間の中で、大学生らしい勉強をしたと思えた数少ない瞬間だったようにも思います。

 

この本から学んだ、当たり前を疑ってみる姿勢
 

 私と親交がある方なら、私が柄谷の著作に影響を受けたなどとは想像もつかないかもしれません。実際、柄谷の2000年代以降の政治的な言説や活動には正直なところ、私は付いていけないと感じています。
 にもかかわらず、この本から受けた影響は、恐らく私の思考の奥底に染み着いているのではないかと思います。それは、普段は特に意識しなくても、ふとした瞬間に思い出されるようなインパクトを持っているように思います。あまり良い例ではありませんが強いて言えば、季節の変わり目や雨の日に疼く古傷のようなものでしょうか。実際、今回この参考文献番外編のお話をいただくまで、『日本近代文学の起源』のことはほとんど忘れていました。
 しかし、この原稿を書こうと思ったとき、不思議なことに真っ先に思い浮かんだのがこの本でした。最初は自分でもその理由がよくわかりませんでした。けれども、じっくりとそのわけを自問自答していくうちに、この本の中で一貫して取られている自明の理を疑ってみるという態度から、研究の取り組み方についての基本的な姿勢を学んだからではないかと思い至るようになりました。
 自明の理を疑ってみるという態度は現象学に通じるものです。私は自分自身の研究を現象学に基づくものだと考えたことはありません。ちなみに、柄谷自身も、この本の構想の大半を考えていた1970年代中頃には現象学のことはほとんど知らなかったと述べています。
 最近、私はコミュニケーション場面の規範の形成過程に関心を持ち、記号論的文化心理学の考え方に基づくアプローチを用いて細々と研究を進めています。『日本近代文学の起源』の巻末にある「著者から読者へ」で、山口昌男が推薦文にこの本が「文学的風景の記号論」であると述べているというエピソードが紹介されています。相当なこじつけですが、こんなところにも不思議なご縁を感じてしまいます。
 当たり前を疑ってみるということは、研究だけではなく、世の中の動きをとらえたり、自身の日常を振り返ったりする際にも有効な姿勢なのではないかと改めて感じ始めている今日この頃です。

 

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* 『日本近代文学の起源』は1980年に講談社から単行本が出版され、1989年に文芸文庫版が出版されている。その後、2004年に改訂版が岩波書店から出ている。2022年8月現在、講談社版は『日本近代文学の起源 原本』(講談社文芸文庫)として、岩波書店版は『定本 日本近代文学の起源』(岩波現代文庫)として入手可能である。本稿で言及しているのは「原本」のほうである。

紹介した人:​たけだ まこと

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