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このコーナーでは、みなさんの研究に影響を与えたバイブル的な作品(書籍、映像、演劇などなど何でも)を募集しています。分量は自由です。

#3 スティーヴ・マッカリー(Steve McCurry)さんの写真集『ポートレイト(PORTRAITS)』
​後藤 賢次郎

遡ること12,3年前の2008年の8月,僕は大学院生(M2)で,広島市内の高校で非常勤講師をしていた。8月=夏休み中は,図書室が自習室として開放されていて,その現場監督のような仕事をさせてもらった。仕事と言っても,ザワザワしないよう図書室内を時々巡回したり,(答えられそうなら)生徒の質問に応じたり…,というものだ。自分が授業をする学期中に比べれば,時間も比較的自由に使えるし,ありがたい「お仕事」であった。

 

ある日のお仕事中の昼休み,社会科準備室(研究室)に戻ってきたところで(高校には,全教員が集まる職員室とは別に,教科ごとに教員の部屋があるところが多い),僕は気持ちの余裕もあり,ふと思い立って書架を物色した。そこには,各出版社の現行/過去の教科書や教育雑誌などが沢山あり,前々から気になっていたからだ。

 

そうして見つけたのが,地理の教員が置いていた『ナショナルジオグラフィック傑作写真ベスト100』という雑誌だ。表紙を飾っていたのは,1985年にパキスタンで撮られたアフガニスタン難民の少女の写真である。「アフガンの少女」と呼ばれる,有名な写真だ。

 

ところどころ,ほつれたり破けたりした,深い緋色の服。それと補色の関係にある,瞳の緑色の虹彩が印象的だ。瞳孔は,これ以上の光を拒むかのように小さく閉じている。反対に虹彩の面積は拡がり,その緑色を際立たせていた。少女の表情は硬く,真っ直ぐ一文字に結ばれた唇からは,楽しい,嬉しいなどといった気持ちは一切こぼれてきそうにない。総じて,こちらの気分が重たくなるような写真だが,僕は釘付けになった。

 

 

この写真を撮ったのは,スティーヴ・マッカリー氏だという。

 

後日,僕はこのナショナルジオグラフィックの雑誌と,マッカリー氏の代表作で,同じくアフガンの少女が表紙になっている『ポートレイト』をアマゾンで注文し手に入れた。

 

『ポートレイト』は文字通り,人物が被写体になった写真を集めたものである。収録されているのは,1970年代末から90年代までの,アジア,南北アメリカ大陸,アフリカ大陸の各地の人々が,個人で写った写真である。

 

僕は一応,非常勤講師として世界史Aを教えていたので,「アフガンの少女」をはじめとする,各地で撮られた写真に写った人々の社会的な背景は,人々のエスニックな装いもヒントになったが,撮られた場所や年で何となく分かった。

 

その場所の文化や歴史,信仰,習俗などが,もぞもぞと浮かび上がってくるのだ。

「個人」を取り出した写真ではあるが,その人にまとわりつき染み付いた「社会」を,僕はこのとき感じた。

 

これが,この写真集と出会った当時の僕の経験である。

 

 

ここで,僕の研究の話をしておこう。

 

僕は学校教育の社会科教育を対象として,特に「教科の本質」というものに問題関心があった。ここでいう本質とは,「それがそれであるために,なくてはならないもの」といった意味だ。

 

私たちの社会についての知識や社会への関わり方は,そこで生活してさえしていれば自然と身についていく。それにもかかわらず,なぜ,“学校で”社会について知り,社会との関わり方を学ばねばならないのか。社会について,何のために何を,どう学ぶ教科であれば,社会科は学校に存在する意味があるのだろうか…うんぬん。

 

……といった,堅苦しいことを頭の片隅に,僕はM2当時,修士論文で,アメリカのオチョア(Anna S. Ochoa-Becker)という研究者が提唱する,社会的な論争問題について判断する力の育成を目指した,民主主義教育のためのカリキュラム編成論を分析していた。詳しいことは省くが,このカリキュラムは,社会事象を科学的に分析することや,社会に当事者の市民としてコミットしたり実際に影響を与えていくことなど,とにかく社会科教育や市民性教育で重要とされてきたものを「詰め込んだ」ものだった。また,大々的に取り上げられる論争問題は,同じ事例を扱ったとしても,学級や学校によって解釈や解決のあり方が異なってくる可能性/問題を孕んでいた。多様性に基づく,マキシマムな社会科カリキュラムと言える。

このようなカリキュラムが,現行の「学校」や「社会科」で,どこまで可能なのか。どこまでが社会科と言えるのか。

 

宙に浮いたような問いに聞こえるかもしれないが,これでもマシになったほうだ。当時はもっと分析対象の言葉をなぞったような記述が多く,「ゴトー君には主張(視点/切り口)がない」「対象に寄り添いすぎている」といった指摘もいただいた。

 

しかし,主張や視点を明確な言葉にできていなかったが,いや,だからこそ,大なり小なり分析対象を再構成していることが,このM2からドクターにかけての院生時代の大半,僕はずっと気になっていたのだった。

 

 

こうした研究上の悩みとともにあって,『ポートレイト』の見え方も変わってきた。

それまでは,一方的にこちらが写真に写っている人々を見ているだけだったのが,いつしか「見つめ返されている」ように思えてきたのだ。

「アフガンの少女」で言えば,少女が緑の瞳で鋭く見つめている,シャッターを切るマッカリー氏その人の存在が気になってきた。それは,マッカリー氏をしてアメリカ人あるいはアメリカという国家に対してや,安全なところからこの写真を見る私たちに対する眼差しのようにも感じられた。

そうすると,『ポートレイト』には,実に様々な「見つめ返し方」をした写真があることに気づく。

優しく微笑みかける人,はにかむ人,視線をそらす人,じっと見据える人,顎を引き上目遣いの人,顔はよそを向いてこちらを睨み付ける人,銃を手放さない人,瞳を涙で潤ませている人,こちらに気付いていないような人,無表情な人…これらの見つめ返しの写真は,マッカリー氏のどのような見つめ方に対する反応を捉えたものだったのだろうか。

研究対象や分析対象は,自分の眼差しを写す鏡のようなものだとも思うようになった。

こうしたことは,何やら危ういものを感じ,自戒の材料にもなったが,同時に,他の誰でもない自分がその研究対象や分析対象にあたる意味を考えることにもなった。

 

 

それからまたしばらく経って,僕は山梨大学の教員になった。

『ポートレイト』は自分の研究室の本棚に,「見せる用」の本として目立つところに飾った。

こういうのも見るんだぞう,という謎のアピールをしたかったのだと思う。

 

2015年の冬,当時の社会科教育コースの学部2年生は熱心で,勉強会をやることになった。

3年時の教育実習に向けて,担当の学生が作った授業プランをメンバーで検討する,というのが主な内容だ。

その勉強会のあるときに,本棚にあった『ポートレイト』を見つけた学生が,「ゴトー先生はスターウォーズが好きなんですか?」と聞いてきた。

 

確かに,少女の服装はスターウォーズの登場人物たちのそれっぽいし,悲しげな表情や緑色の瞳も,暗黒面に堕ちたアナキン(ダースベイダーの正体)と似ていると言えば,そうかもしれない。『ポートレイト』の表紙が,映画のパンフレットのように見えたのだろう。逆に,スターウォーズを全然知らない人にとっては,なんのこっちゃといったところだろう。

 

 

僕は,研究と研究を行う自分に,何か劇的な変化や成長を感じたことはまだない。当然,『ポートレイト』という写真集一冊だけから研究に,ガツンと大きな影響を受けたわけではない。その時々の研究上の悩み,他の多くの本や論文,研究指導していただいた教員,先輩・後輩,同級生など,様々な方面からの影響も当然あったと思う。むしろ僕が書いたのは,それらの影響が何かしら積み重なっていることを,この写真集を見て気がついた,という経験であった。

 

そういう点で,トガル-参考文献番外編の趣旨に僕は素直に応じていないのかも知れない(これぞトガッている!たぶん)。しかし,影響って必ずしも劇的に直接受けたり現れたりするとは限らないし,じわじわと,ゆっくりとした,自覚しにくいものでもある。そう考えたときに,僕は研究と自分への影響,変化に気づくことができる本(写真集)を介することで,二次的に(?),一回り経て(?),影響を受けてきたと言うこともできるだろう。

 

『ポートレイト』は,今後も見え方が変わってくるかも知れない。

紹介した人:​ごとう けんじろう

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